2012年2月25日土曜日

ウミトハネ


妹がそのチケットを手に入れたのは僕が十歳、妹が五歳の時だった。
「にいちゃん、うみからこれあげる」
僕に両手でさしだしたチケットは『やくそくけん』と書かれてあり、僕がそれがどういう意味で書かれたのかを妹に聞くと、まだ幼い妹は、
「うみはにいちゃんとけっこんするの。そのやくそく」
そんな事を言ってきた。当時もう思春期に入りかけだった僕は、この妹の『やくそくけん』を笑顔で受け取りながら内心ではおかしな戸惑いも感じていた。
両親は、妹の宇美が生まれてすぐに離婚し、僕たち兄妹は母の祖父母に引き取られ、育てられてきた。母は実家である祖父の家にほとんど顔も出さず、宇美が幼稚園生になった年に知らない人と再婚して、それ以来顔を見ていない。
僕たちの親代わりとなった祖父母はやさしかったが、それも宇美のあの病気が発症するまでの話だった。
それは宇美が九歳になった時に始まった。
「兄ちゃん、背中が凄くかゆいんだけど」
そう言って僕に背中を見せた。妹のシャツをまくって背中を見てみると肩甲骨の上に小さな傷ができており、それが赤く腫れていた。
「傷みたい。触るなよ?」
そう言い付けたものの、宇美はたびたび背中のかゆみを訴え、そのたびに僕に泣きついてきた。
ある日、僕が部活から帰るといつものように飛び出てくる宇美の顔が見えない。いぶかしんで宇美の部屋に行くと、宇美はベッドにもぐりこんで泣いている。
「おい、どうしたんだ?」
ベッドの傍まで歩み寄る僕に宇美はいつもかゆみを訴えている背中を見せた。
翅だった。
妹の背中の肩甲骨の上に、それぞれ二枚の虫の翅が生えていた。
現代でも難治とされる慢性上皮石灰翅腫という病気だった。
妹は何度も手術をしたが、取り除くたびに翅が生えてきた。翅が生える以外は特に問題になる症状がない事を理由に祖父母が宇美に治療を諦めるように言ってきたのは宇美が十二歳の時だ。もちろん、医療費が嵩んで家計が苦しかった事を知っていた僕と宇美は、それ以上祖父母を苦しめるつもりはなかった。

五年が過ぎた。宇美は十七歳、兄の贔屓目じゃないがとても美しい少女だった。
だが、背中に虫の翅が生えている妹に近寄る異性はいなかった。 ――というより、妹の方が異性を遠ざけていた。高校一年のときに彼氏ができたとはしゃいでいたが、それもほんの一時期の事だった。たとえ兄でも男である僕には言えなかったのだろう。だが僕には薄々だが気付いていた。宇美は恋人にその翅を見せたのだ。そしておそらく手酷い振られ方をした。
宇美がそうやって苦しい青春を送っている中で、だが僕の方はなぜか幸福だった。今から考えればこの美しい妹を何年も一人占めにできたのだと素直に思えるが、当時の僕にはその幸福を素直には受け入れられなかった。僕は何度も妹にデートを薦めたり、僕の大学の友達で信頼できる奴を紹介したりした。
だがそれが逆効果だったのか、宇美は頑なに異性との接触を拒んだ。
「私にはおにいちゃんがいるから、大丈夫よ」
僕はそんな妹に困惑顔をしてみせながらも、内心では無上の喜びがあった。
四年が経ち社会人になっていた僕は、祖父母の家を出て二人暮らしを始めていた。
宇美は大学三年生で相変わらずの男嫌いだが、それなりに充実した生活を送っているようだった。僕はいつまでも妹と一緒に暮らすのだと思い込んでいた。あいつの背中の翅を受け入れてやれるのは僕だけ、そんな陶酔めいた思いに浸っていた事にも気付かなかった。
ある日、宇美は彼を連れてきた。
石間くん。以前僕はいつものようにデートをすすめた僕と同じ大学のサークル出身の後輩だった。もちろん、僕の前に異性を連れてくるなんて始めての事であり、僕は緊張した。
「宇美さんと交際させて頂くことになりました」
出会いというのは一面で難しく、一面でなんともあっけないものだ。その石間という男は既に宇美と僕だけの秘密だった『そのこと』を知っていた。
「お兄さんにお許しを頂ければ宇美さんと結婚をと考えています」
若い癖にずいぶんと堅苦しい事をいうこの男を、僕は「こいつ、いい奴だから」と褒めた。内心では静まりようのない後悔の嵐が吹き荒れている事を妹は知りもしない。
石間は結局宇美の外見に惚れただけではないのか、体が目当てで背中の翅を見ないフリしてるだけだろう。夜になると僕の妄想は大波となって揺れた。そして朝になると静まった。
僕は石間と宇美の結婚を許した。結局僕の思いとは、僕を狂人にさせる類のものではなかったのだ。朝を迎えたとき、僕は必死で自分をそう納得させた。
宇美は八年前に石間と結婚して、今では一児の母だ。
どことなく僕に似ている。夫である石間と宇美が生まれたばかりの甥を見てそう言って笑った時の事は今でも昨日の事のように覚えている。六歳になる甥には、まだ翅は生えていない。たぶんきっと生えない。
そして去年、宇美にさらに嬉しい知らせがあった。 持病である慢性上皮石灰翅腫の再発を抑える新薬が厚生省から認可されたのだ。石間の後押しもあって、宇美は最後の手術に臨み、その背中の翅と決別した。

「それ、おにいちゃん持っててよ」
麻酔から醒めたばかりの白い顔のまま、宇美は僕に言った。取り除かれた宇美の翅は乾燥して小さく縮んでいた。
「バカゆうな、こんなものいらないよ」
そういって断ったが、宇美の頼みもあり結局その翅はビーカーに密閉されて今僕の部屋にある。それを見るとなぜか僕は、いつも妹の結婚式を思い出すのだ。石間は僕に向けたスピーチでこんな事を言った。
『お兄さん。宇美をずっと守って下さってありがとうございます。これからは宇美を守る仕事を僕にも分けて下さい。きっとこれからは僕とお兄さんが両翼に、宇美を守る天使の両翼になるでしょう』

僕は今も一人でいる。
宇美を僕をつなげていた虫の翅は取り除かれ、僕の心にも一応のケリがついた、そのつもりだった。今年の秋には石間くんと宇美にもう一人家族が増えるそうだ。その知らせを聞いたとき、自分の事のように嬉しかった。
でも宇美の翅が入ったビーカーと一緒に、あのチケットがクローゼットの中にある事を、さて宇美は知っているだろうか。『やくそくけん』 僕はそのチケットを後生大事に持って、一体どうしたいのか、兄として妹の幸せを祈っていたいのか。
それを僕はまだ捨てられないでいる。

<終>

4 件のコメント:

ひやとい さんのコメント...

中学校の頃クラスにここに出てくるのと同じ苗字の人がいたのを思い出したのでよかったです。

雨森 さんのコメント...

思い出すお手伝いができてよかったです。

takadanobuyuki さんのコメント...

私は今回はこの作品をいちおし。
投票が終わったのようなので言ってみました。

読後に残る心象に深みがあったと思います。

雨森 さんのコメント...

今コメントに気がつきました。
ありがとうございます…。