2012年2月6日月曜日

【北九州短編集】 木屋瀬川合戦 (3/3)

【北九州短編集 参加作】

木屋瀬川合戦(その3・完結)

あやまり堂

 鮪の源太は、正月の大評定において、
「長男は色黒く、骨柄は肥えたりといえども、不器量なり。智慧はあっても人の嫌う黒智慧ばかり。
 下衆、下郎の類と交るなど行状も甚だ悪し」
 と決めつけられ、次男の鯛の源八に跡目をとられて意気消沈、
 それから回遊放浪の旅に出ていたのであるが、
 今日ただ今、一族の大事を聞いて駆けつけたのであった。

 源太は、時速百キロにも達するという鮪の遊泳速度で一気に網を突き破り、瀕死の仲間を解放すると、
「あきらめるな。こんなところで無駄死にしてどうする」
 と、大きな体を震わせて叱咤激励、戦局は一気に海側有利になったと見えた。

 と、ここで――。
 海・川両軍の争いを無益なものとして、和議を結ばせようと、
 はるばる尾張国より、尾張大根細長が、検視として筑紫へ下向してきたのである。
 供は大勢の八百屋物に、豆腐、菎蒻という威儀めかした一行。
「無益な戦いは止めよ」
 と一声仰せがあるや、たちまち松茸上人を初めとする近隣の名士豪族が恐懼し、
 両軍へただちに和睦を進言。
 川側はもとより少数のことで和議に異論はないし、海側でも鮪の源太が、
「平和こそ第一だ。こんなところで争えば付近の漁夫の利となるばかりで、
 我らには少しも得にならぬではないか」
 と、弟や鱸左衛門を叱り飛ばし、
 また大将である鯨入道も、細長卿や、同行の貴人・焼酎納言胸焼(むねやき)卿に逆らってまで
 この戦を続ける気は無かったため、結局、細長卿の提案を呑むことに決った。

 講和会議の席上、尾張細長卿は、
「料理は時節もあり、海川の魚関係なく楽しむべきもの。
 あらゆる海産物、野菜、酒、みな和合してこそ美味となる。
 食材どもが不和となれば、講座、婚礼、諸々の祭礼に客対応、
 あらゆる場面において差し支えが生ずるものだ。みな後々まで和合せよ」
 と、両軍の大将に諭したことで、この、何とも馬鹿らしい木屋瀬川合戦は終結するのだった。

 ――以上が、木屋瀬川合戦のあらましであるが、
「逆鱗余聞」では、駆け落ちした鮎姫と鰻之介のその後が語られていない。
 だが在郷の稗史、伝承のたぐいと、「逆鱗余聞」の断片をあわせて語れば、
 二人のその後は、だいたい以下のとおりになる。

 八月末に、木屋瀬川の城を抜け出た二人は、そのまま川をさかのぼり、
 懸命になって、花の滝、鮎返しの滝と呼ばれる難所を越えて、
 九月初旬、八木山中にある古刹、名正寺へ入った。
 ここの住職、松茸上人と鮎姫は旧知の間柄であり、二人はこの地でしばらく、下界の騒擾とも無縁の、
 幸せな日々を送ることができたようである。
 が、城中での贅沢に慣れた身に、寂しい山奥の暮しは耐え難く、
 とりわけ女漁りを趣味としていた鰻之介にとって、鮎姫一人を愛して月日を送るなど、
 とうてい出来る相談ではなかった。

 次第に疎遠になる間柄。

 やがて尾張細長卿の九州上陸にあわせ、松茸上人が山を下りるというまさにその日、
 鰻之介は書き置きさえ残さず、するりと寺から逃走してしまった。
 百年の恋も、冷めればむなしい過去だけが残る。
 鮎姫は男の薄情を恨んだものの、自分も、以前の燃え上がるような恋心を持たないことを悟って、
 追いかけることもせず、そのまま迎えが来るまで、ぼんやりと、寺の一室で昼夜を過していたという。
 その後、鮎姫が誰のもとへ嫁いだのか、定かでない。

 一方、平戸沖では、鮪の源八が、鯨入道の跡目相続人と定められた。
 また、今回の不始末の責めを負い、鱸左衛門の追放が決ったが、
 騒動の道化となった鯛の源八が取りなして、執権職の剥奪だけで済まされた。

 その後――。
 いくらもしないうちに、権力を失墜させた鱸左衛門の屋敷に、
 にょろりとして細長い、例の鰻之介によく似た新参者が仕えるようになった。
 だが当人に聞けば、
「それがしは、穴子之介と申します」
 とのことであった。





(了)

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