2012年2月11日土曜日

秘伝の味


――三十年以上は歴史のある老舗、といった印象だった。
店の表には屋号など出しておらず、看板には太い崩し字で『らーめん』とある。一見して特別関心を引きそうにない、どこにでもある普通のラーメン屋だった。
だが、私は店から匂いたつ香りによって吸い寄せられてしまった。

B級グルメの口コミサイトに素人記者として参加し、各地の飲食店の料理評を書き初めて四年になる。四年も続ければ慣れが生じてしまうもので、システムエンジニアという本業柄出張が多く、各地の飲食店を巡って来た私はすっかりその手のグルメというものに食傷してしまっていた。そのうち何を食べても料理批評を並べてしまう悪い癖がつき、それもあって二ヶ月から口コミサイトを遠ざかっていた。
そんな私が珍しく食指を動かしたのが私の住いのごく近所にある何の変哲もないラーメン屋、というのが我が事ながら不思議だった。『らーめん』。なんて素朴で味気のない店だろう。この不思議を楽しんでやろうという奇妙な気持ちが生まれると、決意してのれんをくぐりアルミ製のサッシを開けて店内を覗き見た。
平日の昼前だったが店の中は薄暗く、本来書き入れ時にも関わらず客の一人もいなかった。昨今の外食業界の過酷さを鑑みるとさして珍しくもない光景ではある。
「いらっしゃい」
店の奥のカウンターには一人の若い男が木槌で豚骨を砕いていた。店舗の老朽具合から老人の姿を想像していた私には少し意外だった。
「やってます?」
「やってますよ、どうぞ」
若い店主が手を差し出しカウンターの席を勧める。ひとまずほっとした。
席につくとすぐにお冷が出てきた。コップが綺麗に磨かれている事を確認して一口だけ喉に流し込む。
「じゃあ、ラーメン下さい」
初めて訪れた店ではその店の一番のお勧め料理を食べる、これは私に課しているつまらないルールのうちのひとつだ。この店はラーメン屋だから無論、私はラーメンしか選ばない。
「ラーメンですね」
はっきりした声で若い店主が応えた。薄暗く、まるで昭和から時間が止まってしまったような古い店の中で、若く溌剌とした彼だけが異分子のように見える。
「随分と風格のある店だけど、何年やっているんですか?」
風格という表現は、単純に古い店だとは言い辛かった私が苦心の末に編み出したものだ。
「ウチの父の代からやってますから、もう三十五年にはなりますね」
やはり、と最初の予見の当たった私は内心でほくそ笑んだ。
「長いんですねえ」
「ええまあ。ただ、僕が厨房に入ったのはほんの二年前なんで、味にまで風格があるかどうか――」
そう言うと店主は苦笑した。笑った顔はまるで学生のようだ。
「プロがそんな事言ってちゃ駄目でしょ」
私は笑って青年をたしなめる。この屈託のない、まるで商売気と無縁な様子の店主に私はなんとはない好感を抱いた。
しばらくの時間の後で私の前に丼が置かれた。
「お待たせしました。ラーメンです」
象牙色の地に薄緑の唐草をあしらった丼からは、豚骨スープの香りが立ち上る。久留米風の白濁スープと違い強烈な匂いはない。どちらかと言えば、カップ麺に近いような膨らみのない香りであり、私は内心失望した。
「じゃあ、いただきます」
レンゲを手にとると丼からスープをすくい、舌へと運ぶ。その瞬間私は自分の第一印象が間違っている事に気づいた。
「う……」
思わずうめいた。そして出ようとする言葉を飲み込んだ。
……旨い。それまで凡百とも思われたスープは、一端舌の上に広がると、まるでデキャンタージュされたワインのように香りの花が開く。いまだかつてこのようなスープを味わった事などなかった。奥深くからあふれ出る野趣あふれる香り、そしてほのかな酸味とともに舌をとろかす甘みは、私を魅了したと言っていい。
続いて麺をすする。軽いウェーブのかかった細打ち麺だがコシは強くなく、あくまでスープの味わいを殺さぬように仕上げられている。麺と、麺にかかったウェーブがからめとるスープとの味の統一感はすばらしく、私は別世界に招待された心地になった。具であるチャーシューは味付けを塩だけに留めており、これもスープを邪魔しないための処置だと感じた。ただ一点異質なのがメンマだった。
甘いのだ。醤油とごま油で煮絡めてあるがとても甘い味付けのこのメンマは、一定方向へと流れてゆくスープの味に、スタッカートのような独立したリズムを与え、それがアクセントとなっている。その事によってスープはよりその味わいを引き立てられ、食する者を更なる桃源郷と誘うのだ……。
丼が空になるのに時間はかからなかった。私は夢中でスープを飲み、麺をすすり、具を食べ、またスープを飲んだ。
「――旨かった。こんなラーメンは初めて食べたよ」
仮初めの幸福感が満ちる。この店を選んだ自らの直感が正しかった事もあわせ、すっかり気分の高揚した私は賛辞を惜しまなかった。
「そうですか、ありがとうございます」
だが、私のテンションの高さと反比例するかのように店主であるはずの若者の反応は冷ややかだった。私は自分の持ち合わせる全ての言語表現を尽くしてこのラーメンを褒めちぎった。それは正に素人グルメ記者としての晴れ舞台と言っても過言ではなかった。だが私がこのラーメンを誉めれば誉める程に若者の表情は曇ってゆくように感じられた。
「お客さん、ラーメンにお詳しいんですね。もしかしてご同業ですか?」
「いやいや。ただのラーメン好きですよ」
私はなけなしの自制心で『グルメ記者です』などと名乗ろうとする軽薄な自分を抑えた。
「白状しますが、このラーメンは父が考案したラーメンなんです」
「ほう、お父さんの……」
なにやら事情がありそうだ、そう私は思った。そうでなければあれほど誉められながらこれほど寂しい表情はすまい。
「父はもう亡くなったのですが、私は父が作ったこの秘伝のスープを引き継いで店をやってきたんです。ですが、商売を続けると自分と父との料理人としての差、と言いますか、力量が悔しいほどに分かってしまいまして――」
なるほど、と私は頷いた。親子二代で仕事を続ければそういう事もあるだろう。特に真面目で善良な息子ほどそう思うものだ。
「――実は今日でもうこの店を閉めようと思っているんです。別の場所でやり直そうかと」
「え?」
それまでの晴れ晴れした心が暗雲に閉ざされてゆく。
「……閉めちゃうんですか?」
これほどのラーメンが移転してしまう事は悲劇でしかない。
「ですから、最後にお客さんから感想をいただきたいんです。……僕が作ったオリジナルのラーメンの。もしこれが父のラーメンよりも不味かったなら、この店を畳むつもりです」
「……役目重大ですが、引き受けましょう」
本心を言えば、亡き父のスープを守れと言いたかったが、私は黙ってその申し出を引き受けた。
この店主は若い。自分の可能性を試したいだろうし、外の世界で成長する機会もまだまだある。
「では――」
厨房に立つ青年店主は右端にあった寸胴鍋の蓋を開けた。すると、そこから凄まじい獣くささが湧き上がった。豚骨にしては強すぎる香りだ。先ほどと同じような手つきで青年が丼にラーメンを仕立ててゆく。不安に駆られながらも私は黙ってその様子を見守った。
「――お待たせしました」
私の前に据え置かれたラーメンは先ほどの彼の亡父のラーメンと一見して同じなように見えた。だが丼から上りたつ香りが全く違う。亡父のラーメンは芳醇かつストレートな骨の香りだったが、息子のラーメンからは魚介の香りが匂うのだ。二つ目の寸胴鍋を開けた時に漂いだしたあの強烈な獣臭はどこに消えたのか、そう思うほどに綺麗に整えられた芳香だった。
「では、いただきます」
レンゲを丼へと差し入れてその白濁した液体を舌へと運ぶ。
「お……」
またしても私はうめいた。そして押し出てくる言葉を飲み込んだ。
驚くほどにコクが深い。これは一体? 
「実は、このラーメンのスープには猪の骨を使っているんです」
私の表情を読んだのか店主が口を開いた。
「猪?」
「はい、猪です」
どうりであんな臭いを放っていた訳だ。しかし完成品であるこのラーメンからはあの獣臭が殆どしない、むしろ匂いたつのは魚介の香りなのだ。それも鰯や昆布といったベーシックな出汁ではない。
「もしかしてこれ、鮭節使ってる?」
「正解です」
なるほど猪骨に鮭節か。私はニヤリとした。
野趣あふれる二種の出汁を掛け合わせる事で互いの欠点を相殺し、長所を引き出す、そういう寸法か。店主のアイデアに感心した私は次に麺へと箸を伸ばした。
店主のラーメンの麺は亡父のラーメンよりも幅広でウェーブが全くかかっていない。深いコクと香りが売りと思われるこのスープでは、ウェーブによってスープを絡ませるとしつこさを感じさせてしまう。逆に、スープとの絡みが控えめな幅広麺を使う事で、客の舌の上で絶妙な味覚のアジャストが施される。
うむ、旨い。この父親にしてこの息子あり、といったところだ。軽く醤油で味付けされた煮豚は厚切りされており、重厚な猪骨鮭節スープとうまくバランスが取られている。そしてメンマの代わりに散らされた白髪ねぎは食べる者に一服の清涼をもたらす。
「……うん。凄く、うまかったよ」
丼の置く私の顔にはおそらく幸福という文字が浮かんで見えるだろう。
「ありがとうございます!」
今度はまごうことなき喜びが見て取れる。
「それで、その……」
「ああ。わかってるよ」
そう、私が味わった二杯のラーメン、どちらが旨いのかを今ここで、私が決めねばならない。一人の将来ある青年の人生を私が決めると言っていい。責任は重大だった。
「今日のまだ昼前だというのに私はラーメンを二杯も食べてしまった。食べられてしまった。これは二杯のラーメンともが旨かったという事になるが――」
青年店主は静かな瞳で聞いている。慎重に言葉を選びながら私は告げた。
「君のラーメンは、味わいの統一感という点で君のお父さんには一歩及ばない――」
青年の顔に失望の色が広がった。しかし私は「――だが」と続けた。
「だが私は、君の重厚なスープをお父さんのラーメンを丼一杯平らげた後でも美味しく飲むことができた。完食できた」
店主の顔が上がった。
「味の統一感ではお父さんに引けを取る、それは確かだ。だが、君の猪骨鮭節スープは本物だ。そして君の創意工夫とお父さんのスープを越えようとする情熱も」
「お客さん……」
「一年だ!」
私は人差し指を青年に突きつけた。
「一年後にもう一度、味比べを私にさせてくれ。それまで君はこの店で死に物狂いで修行するんだ、お父さん秘伝のスープに打ち勝つために」
「は、はい!」
青年の目に涙が滲んでいた。努力に実りを感じたのだろう。
「おいしいラーメンをありがとう」
私は釣りはいらないと二千円をカウンターに出すとサッシの引き戸を開けて店を後にした。

外はもう昼。太陽はすっかり雲に隠れて、少し雨が振っている。
良い事をすると気分がいいとは言うが、悪い事をしても気分はよくなるものだ。なんと言ってもあのラーメンがこんな近所で食べられるのだから。
「『君の創意工夫と情熱』……なんて」
思い出しただけで体がむずがゆくなってくる。よくもまあ、あんな見え透いた嘘で涙まで流したものだ。
――あの時、私の興味と食欲は既に彼の亡父のラーメンへと注がれていた。確かに息子である店主のラーメンもかなりのものだったが、私の趣味とは相反した。私は彼の父親の秘伝のスープを手軽に味わうために、最後のジャッジメントを敢えて曖昧なものにした。そして、失笑が洩れる程にたやすく事は成功した。
横断歩道を渡り、川沿いの道を歩く。心は喜びに湧き立ち、明日からの生活さえも明るく見えてくる。
「あのラーメンは本当に絶品だったからなァ」
想像するだけでうっとりとしてしまう。店に入った瞬間からトキメキを感じていたのだ、あの青年が骨を叩き割っている場面に出くわしてからだ。
「しかし……」
あの店主が最初に砕いていた骨、豚にしては奇妙だったな。上はつるりと丸くて、大きい穴がふたつ、すぐ下に小さい穴がふたつ空いていて、さらにその下には綺麗に整った歯がずらりと並んでて……。
ふと、私は立ち止まった。
「そんな……」
記憶を手繰り寄せる。そして私は愕然とした。
「……営業時間と休業日を聞き忘れた……」

<終>

0 件のコメント: