2012年2月25日土曜日

母の写真


母は僕が幼い頃に死んだ。
だから、僕は母がどんな人なのかよく知らない。
父に聞いてみると、優しいお母さんだったよ、というのだが、そこにはどこか困惑の色が浮かんでいる。
困惑の色、というのは、どんな色なのか口では説明しにくいのだけれども、明るいのにどこか影を帯びた橙色のような感じだ。
父は時々、母の写真がのったアルバムを見せてくれるのだけれども、僕が一歳になって以降、写真は一枚も残されていなかった。
写真を撮るのを嫌がったんだ。
そう、寂しそうに父は言った。
僕は一歳の頃原因不明の病気にかかった。何件も医者をまわったけれども原因はわからず、有効な治療法も見つからなかった。
それでも父と母は僕を見捨てずに、必死に看病してくれた。
覚えているわけではないんだけれども、苦しい闘病生活は2年ほど続いた。
そして、母は死んだ。
仏壇の遺影には笑顔の母が写っている。
アルバムの写真には笑顔の母が写っている。
だから僕の頭の中にいる母はいっつも笑顔なのだ。
笑顔で僕を優しく撫でてくれる母。笑顔で料理を作ってくれる母。
母のイメージは、ぼんやりとしている。
少しでもそのイメージを固めようとして、母の話を父にせがむのだけれども、父はあまり話したがらなかった。
いつだったか、そんな父への苛立ちが爆発してしまったことがある。
「父さんは母さんのことが好きじゃなかったんだ!」
その言葉を聞いた父は唖然とし、そしておろおろと当たりを見回して、涙を流し始めた。
「違う……違うんだ。私はふたりとも守りたかったんだ」
優しく、そして頼もしい父のこんな姿を見せるのは後にも先にもこの一回きりだった。
そして僕も母の話を聞くのはそれっきりにしてしまった。
父の言った言葉の意味が、何なのかその時の僕にはまだわからなかった。
その意味を知ることになるのは、大学受験を終えた頃だった。進学することになった大学は家から遠くはなれており、一人暮らしをすることになった。
一人暮らしは楽しみだったものの、長年住み慣れた家を離れるのは寂しいし、父の背中は以前よりも小さくなった気がしてなんだか心配にもなった。
僕は家をしっかり見てみようと、家の探索をはじめた。
子供の頃の落書き、身長が伸びるたびにほった柱の傷、父と喧嘩した時八つ当たりにけった壁の穴。
家の模様一つ一つに思い出が浮かんでいた。
それを見つけたのは5回目の探索の時だった。
仏壇の横の戸棚。
それまではそこを開けようなどとも思わなかったし、必要性もなかった。けれどもそこがどうしても気になったのだ。
中には褐色に濁った段ボール箱があった。
包丁と、薬の入った瓶と、褐色にくすんだ小さな服、そして一枚の写真が納められていた。
褐色は、血の乾いた色だった。
「見つけてしまったんだね」
振り向けば、悲しげな顔の父が立っていた。
父はゆっくりと僕の横に座り、懐かしそうに段ボールの中をながめ、やがてぽつりぽつりと語りだした。
僕が生まれた頃から、母は段々とおかしくなりはじめていた。
月並みな言葉で言っていいのかわからないが、育児ノイローゼだったのだろう。
父は仕事が忙しくなり始めた頃で、それに気づくことが出来なかった。
そして、僕の病気。
それが母を完全に狂わせた。いや、それは母から父への最後のSOSだったのだ。
母は僕に毒を飲ませていたのだ。
父は僕の異常に気づいても、母の異常には気づいてやれなかった。
そして。
母は僕を殺そうとした。
母は大量の睡眠薬を飲み、僕を包丁で殺したあとに自殺しようとした。
けれどもそれは実行に移されなかった。
睡眠薬を飲んだ母が僕に包丁を突き立てようとしているところを、帰宅した父が見つけた。
父はとっさに僕を助けようと、母を止めようとした。
揉み合い。
母の力は思いのほか強く、父も必死だったという。
揉み合い。
血。
包丁が母の喉に刺さった。
父は急いで救急車を呼んだが、睡眠薬を飲んでいたこともあり、助からなかったのだという。
「私は、ふたりとも、たすけたかったんだ」
父はそう言って泣いた。

写真は僕を抱いた、笑っていない母の写真だった。

それを父はまだ捨てられないでいる。

1 件のコメント:

ひやとい さんのコメント...

ラストは見捨てられないでいるって書きたかったんだろうなあっていうのが見えてそこが面白かったです(笑