【登場人物】
古屋勇太‥‥十九歳。小説家志望のフリーター。祖父の営む古書店でアルバイト中。
美園さおり‥‥十七歳。高校生。勇太の幼馴染で、青果店の一人娘。
古屋繁
‥‥勇太の祖父。古書店を営んでいる。
ジェイムズ・J・ジェイムズ‥‥伝説の作家。
「そら」
勇太を起こそうと手を差し出した祖父の表情はまるで普段どおりで、勇太は拍子抜けしてしまった。
「寝てたって……じいちゃん、俺ずっと寝てたの?」
「あ?」
今度は繁のほうが拍子抜けしたような顔になる。
「いや、ごめん……」
反射的に勇太は謝ってしまった。すると更に祖父の顔がゆがむ。
「『じいちゃん、俺ずっと寝てたの?』だと? 第一声がそんな言葉でいいのか?」
「何? 第一声って……」
かあっ、と痰を吐くような声とともに祖父は納戸の天井を仰いだ。
「古屋の一人前の男が、そんな事しか言えんのか! 情けない奴め!」
さっきまでの柔和さとは間逆の険しさで勇太の祖父は吐き捨てた。勇太は訳も分からずたじろぐ。
「じいちゃん、さっきから意味が分かんないんだけど……」
借りてきたロングヘアチワワのように戸惑うばかりの勇太を顧みもせず、繁は納戸から歩み去ってしまった。
「……なんなんだよ」
一人残された勇太に湧き上がっていた困惑は、ようやく怒りへと切り替わろうとした。しかし、
「もしかしてボケてきてんじゃないだろうな……」
そんな言葉が浮かんでくると、鎌首をもたげた怒りの炎などはワンタッチガスコンロのように一瞬で消えてしまった。
祖父が心配になった勇太は作業を一時中断して納戸から店舗へと戻った。
「なあ、じいちゃん」
勇太は店舗に入ると、カウンターの奥でひとり渋茶を啜っているだろう繁に声をかけた。
「……さっきの事なんだけど、あれっていったいどういう意味なの?」
その瞬間、勇太は先ほど見た複雑怪奇な夢を唐突に思い出した。
額縁から飛んできた本の一ページが勇太の額に突き刺さりめり込んでいく、というふざけた夢だった。
『勇太、勝つか負けるかだ』
その夢の中でも祖父が口にしたその台詞が鮮明に勇太の脳へフラッシュバックする。
「……じいちゃん?」
祖父の返事はいっさい聴こえて来ない。勇太の心臓が早鐘のように脈打つ。
店舗にはうずたかく古書が積まれている。その向こうにはカウンターがあり、住居部分への続く階段が見えてくる。
――そのはずだった。
「……なんだこれ」
勇太の目の前のあるのは、古書の山。
それだけだった。古書の山が、どこまでもどこまでも、どこまでも続いている。
祖父の姿はどこにもない。ただ夥しい本が遠くまで影となって、古書の地平線を形成していた。
「ウソだ」
現実にありえない光景に勇太はその場から逃げ出そうと来た道を引き返す。
だがさっきまであった筈の店舗部分の扉は、それまでが幻だったかのように影も形も見られない。
ジェイムズ・J・ジェイムズ。
古書の山から誰かが囁いた。ジェイムズ・J・ジェイムズ。
「誰かいるのか?」
勇ましく誰何した勇太の声には何も応答はこず、囁きだけが繰り返される。ジェイムズ・J・ジェイムズ、と。
「そこに、誰かいるんですか?」
恐怖が先立って敬語に切り替える。だがやはり返事はなく、ただ囁きだけが続く。ジェイムズ・J・ジェイムズ。
絶えず繰り返される囁きは少しずつ数を増して、声を大きくしてゆく。思わず勇太は耳を塞いだ。
「夢だ、また夢を見てるんだ俺は!」
大声で叫んだ。だがなぜか囁きは塞いだ手を透過して勇太の鼓膜を震わせる。やがてジェイムズ・J・ジェイムズという作家の名前はジェイムズ・Jという二拍子のリズムへと変わってゆく。
ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J……。
「もうやめてくれ! 助けて! じいちゃん、じいちゃぁん!!」
両手で耳を塞いだまま気も狂わんばかりに勇太は絶叫した。
出口はもうない。逃げ場はもうない。誰も助けには来ない。
勇太の精神が崩落する間際、背後で足音が聞こえた。ジェムズ・Jの大合唱の中にもその足音だけが確かに勇太の耳を、いや脳を刺激したのだ。
勇太は振り返れなかった。もし足音の主が勇太の想像を超えるような化け物だったら……。
そう考えると勇太の全身は冷凍マグロのように動かなくなった。
ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J・ジェイムズ・J……。
大合唱の中を、誰かが本の上を歩いてくる。
『勇太、勝つか負けるかだ』
突然、祖父のあの台詞が勇太の脳裏によみがえった。まるでその場にいない繁が、孫を励ましたように勇太には感じられた。
「じいちゃん……俺は、負けたくない!」
勇太は金縛りにかかったように言う事を聞かない身体を無理に動かし、足音の主へと振り返った。そして息を呑んだ。
1 件のコメント:
くっくっく、四話め書きます。 ウソです。もう書いちゃいましたん。
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