2013年2月1日金曜日

柳町ゲートキーパーズ


 門司駅前の交差点で信号待ちの途中、上着のポケットから携帯をとり出した。
 着信を確認したが、まだ是武(これたけ)からのメールはない。
 三十分ほど前には黒崎駅に到着した旨のメールが届いたが、おそらく今頃は無事に門司駅に着いている頃だろう。
 ――同じ門司の市営団地に住む幼馴染みで、小・中学校時代の同級生でもあった是武とは数年前よりたびたび旧交を温める仲となっていた。今では二人とも門司区を離れ、俺が北九州市戸畑区、向こうが広島市内に在住しているので旧交はもっぱらネット経由での保温となる。しかも温め忘れて三・四ヶ月冷ましてしまう事もざらにあったが、途絶える事なく不定期的に連絡を取りあっていた。
 その是武が『姉ちゃん』の呼びかけもあり北九に帰って来る運びとなったのは一週間ほど前の話だ。是武はそれま勤めていた会計士事務所を辞めた直後で、どうやら永犬丸(えいのまる)の実家を拠点にして北九州市内の職を見つけるつもりらしい。

 時間は午後六時を少し過ぎており、日が沈んだ後の門司駅前は街頭と信号、慌ただしく往来するヘッドライトのせいか、赤茶色で現実味の薄い、どこか玩具でできた街のように見える。
「おう、アッちゃん」
 いきなり駅とは反対方向から声がかかったので少々驚いたが、是武だった。そんな名前で呼ばれるのも今では家族を除けばごく少数の幼馴染に限られるものだから少しばかり懐かしい。
「早いやん。遅かったら駅舎まで迎えに行こうかち思っとった」
「黒崎着いたら丁度いいのが来たけん飛び乗った」
「ヒゲ生やしとる」
 顎髭に手を伸ばしたが上手いこと払われた。ほぼ一年ぶりに会う旧友は全体的に少し痩せたように見える。
「――それで『姉ちゃん』とは連絡ついとるんか?」
「さっき電話したら『七時には開ける』っち言いよった」
 俺の返事に是武は髭つきの顎を上げてカクカクと頷く。そういえば子供の頃からこいつはそういう偉そうな首肯の仕方をしてたっけ。
「時間は俺に合わせてで本当に良かったんか? 俺は姉ちゃんの都合のいい日取りで構わんのやけど」
「本人がええっち言いよったんやけ、ええっちゃ。今から手土産買うけん寄り道するぞ」
「どこで?」
「こっからちょっと行った先に『六法焼』があるけ」
「ショボいなー」
 やかましい、と言い捨ててから信号を渡る。

 『六法焼』で回転焼きを六個ばかり買い込んだ俺たちは、そのまま裏路地を小倉方向へと進む。
 空は生憎の曇天で、おまけに昼まで雨が降ったため湿気もあり世辞にも心地いいと言えない夜だ。手に提げていた六法焼の紙袋もゆっくりとだが熱を失ってゆくだろう。
 『六法焼』は店舗の名前も商品名も『六法焼』だが、このタイプの饅頭を六法焼と呼ぶ者は俺の周囲では少数派だ。呼ぶならおおむね回転焼きか、いいとこ回転饅頭といった所だ。たまに『今川焼き』や『大判焼き』などというスカした名称で呼ぶレアなケースも聞くには聞くが、幸いにして俺はまだ出食わした事がない。
「姉ちゃんは相変わらず?」
 六法焼について考えていたが是武の声に遮られた。
「変わらんみたいやな、結婚もしとらん。彼氏おるんかは知らんけど」
 俺の答えに是武はふうんと生返事をしたが、その複雑な表情を見逃す俺ではない。
「多分お前じゃムリやち思うぞ」
 心を抉るかのごとき言葉のボディブローを浴びせると旧友は狼狽えたように「しゃあしいわ」と呟いた。

 ――俺たちが『姉ちゃん』と呼んでいる人物は俺や是武の姉の事ではない。
 『姉ちゃん』とは、むかし俺達が住んでいた市営団地での幼馴染、忍さんを指す。俺と是武より一歳年上だが幼稚園小学校中学校と全て一緒、気の強いある種のオーラを持った女の子だった。幼かった俺と是武はおそらく畏敬のような思いまで込めて彼女を『姉ちゃん』と呼んでいただろう。是武は中学で引っ越してゆき団地を去ったために一時付き合いが途切れたが、俺と忍さんは親同士が高校時代の親友とかで古くからの親交があったために親戚に似た付き合いがあった。それは今でも変わらず、たまに話す程度の付き合いは維持されていた。あくまで親戚のような付き合いという点が少しさびしいが。

 小さな居酒屋や一品料理屋といった昭和の北九州の情味を残す門司区柳町の路地を三分ほど歩くと月極駐車場の向こう側に灰色の小さなビルが見えてくる。懐かしい思いがぶわりと沸き返ってきて堪らない。
「あれな」
 俺が指さすと是武は意外そうに「あんまし、変わってねえな」とだけ零した。
 小さく『井関ビル』と装飾された外壁は少し汚れが目立ち、年季を感じさせる。その一階部分は小料理屋で、これまた昭和チックな外観をした店構えだ。たぶん店舗自体は入れ替わりがあった筈だが、不思議と雰囲気は変わらない。そんな気がする。
 外からちらりと店内を覗いたが、スモークの張られたサッシの内側は客の影がまばらに見えるだけだった。その小料理屋の左手に間口の狭い階段があり、俺はそこを登るよう是武を促す。幼馴染は明らかに怯んだようだった。
「アッちゃん、ここで逃げたらいけんよな」
 失笑とともに俺の方へ振り返った旧友の顔にはどこか不安の色が見える。そういえばこいつ、昔もそんな事言ってたっけ。
「いけん」
 そう俺が笑ってやると観念したかのように是武は階段を登りはじめた。
 階段は照明が弱く、少し薄暗い。おまけに狭いので微妙なプレッシャーを是武に与えているようにも見える。二階の踊り場には更に三階へと続く階段が伸びていたがその先は完全に照明が落とされており、まるで果てなき闇といった様子だ。左方向には鉄製扉が行く手を遮っており、その奥に『姉ちゃん』はいる筈だ。是武がドアのざらざらした表面を手で触れる。
「なんか団地思い出すな。こういうの」
 ぽつりと零す。そこでかよと思いつつ、とりあえず俺も乗ってやる。
「そういや丁度こんな感じだったよな」
 俺も是武も今では団地を離れて暮らしているから微妙な郷愁を感じる事は確かだ。しかし失笑してしまう。こんな薄暗い所で郷愁に浸るなどまるで馬鹿ではないか。照れ隠しもあって「はよ行け」と俺は是武の背中を押した。
「いや、ここっちインターホンとかなかったっけ?」
「ないけん。叩け」
 言うより早いと俺がドアをガンガン叩く。どう見ても是武のやつは怖気づいている。
「こんばんはー、田中です」
 硬いドアに向かって声をかけると「はーい」という小さい返事があった。構わずにドアノブを回すと鍵はかかっておらず、思いのほか軽く扉が開いた。
「こんばんはー」
 俺に続いて是武が控えめな声で挨拶する。部屋の中がちゃんと明るい事に少しは安心したようだ。ドアノブが俺の手を離れていっぱいに開かれると見知った顔が現れた。
「こんばんは。ユキくん久しぶり」
 ユキくんとは是武の幼い頃の愛称だ。目の前の女性・忍さんは入って入ってと俺達ふたりを招き入れる。俺への挨拶はスルーだが、それは別に俺が嫌いという意味ではなく親戚のような気安さゆえだ。
「どうも、ご無沙汰してます」
「元気やった? おばちゃんたちは変わりない?」
「お陰さまでみんな元気です。こっちに帰ってからお袋が毎日うるさいですけど」
「久しぶりに親孝行できるっち思ったらいいやない」
「いやぁ、親孝行はまだちょっと厳しいですね」
 そう言って忍さんと是武は笑う。
 ――如才のない事を言って社会人の顔で笑う是武を見ていると、いっぺんに時の流れを感じて妙な気分だ。同い年なのに、知らないうちに大きくなりやがって、などといった父親めいた感慨が湧いてくる。同時にほんの少しの寂しさもあるから、まったく不思議なものだ。
「姉ちゃん、これ買ってきたけん食べようや」
 『六法焼』改め回転焼きの紙袋を俺が出すと、忍さんはやけに真面目な顔で「それは後にせん?」と言って俺を見た。まあそれもいいか、と思った。
「忍さん、ここ買ったんですか?」
 井関ビルの二階フロアはさして広くはないがオフィスとして利用するには手頃な間取りだ。しかし実務的なものは一切置かれていない殺風景な眺めから察するに、おそらく『入り口』としてのみ利用しているのだろう。二十年前もこの廃屋のようなこの佇まいから俺と是武が冒険心を刺激されて踏み込んだのだ。
「ここはビルも含めて全部母の名義になってるから」
 そりゃあそうでないとな、と俺は頷いた。地下にあんなものがあるんだし、入り口もあんな風になっているのなら賃貸なんて危なすぎる。俺がそう言ってやると是武はあっさり納得した。
「もう二十年になるんですね」
 あたりを見回して是武が感慨を込めて言うと何やら色々とこみ上げるものがある。あの頃ただの小学生だった俺たちはすっかり歳を取ってただの大人になった。特別な何者かになれると信じていたあの頃の俺たちはもうどこにもいない。
 それでも俺と是武はここへ帰ってきた。忍さん、いや『姉ちゃん』の元へ。
 忍さんは是武を、次いで俺の顔を見つめると言った。
「ユキくん、アッちゃん。おかえりなさい」
「ただいま、『姉ちゃん』」
 二十年の時間を一気に遡ったような気分になる。湿っぽくなりそうだったので俺はわざと声を高くした。
「じゃあ始めよっか」
 それが号令となった。
 フロアの右隅の壁には小さな鳥居を象った刻印が彫られてある。
 その事を確認した是武が壁の切れ込みを押すと一枚だけ壁板が外れて木製の引戸が現れた。そこを開けると二十年前のとおり、ぽっかりと穴が空いている。
「……建物は古くなったけど下は何も変わってないから、心配いらんけんね」
 そう言い残して忍さんが穴へと飛び込んだ。
「変わりないっち言われてもな……」
 怖いよな。是武が床に空いた穴を覗きこむ。小学生の頃ここから落ちたのはただの事故だった。だが今は意を決して飛び込まなければならない。
「こんなとこ飛び込むっちゃ、いよいよいかんくなった時くらいっち思っとった」
 それはつまり自殺という事か。そう察した俺は眉を逆立てた。
「はよ行けえや」
「分かっとる、分かっとるっちゃ!」
 俺に背中を蹴られる前に是武が穴へ飛び込んだ。その直後に俺も飛び込む。
 暗闇の中、風を切る凄まじい音が耳を聾した。穴の中は急勾配になっており俺たちはどこまでもどこまで滑り落ちてゆく。低い悲鳴が上がったが、あれは多分是武だろう。そう冷静に思ったが俺もずっと悲鳴を上げていた事に気づいたのは地下に到着した後だった。
 隣には是武が四つん這いになって呼吸を整えていた。どうやら悲鳴を上げていたのは本当らしい。俺は腰が抜けていた。
「……きつい」
 俯いたままで是武がそう零す。確かにきつい。二十年前はもっと楽しい心地だったと思うが、もしそれが記憶違いでなければ子供時代の俺たちは少しおかしい。
 俺たちが辿り着いた場所は『もんじの関』と呼ばれる『御社』だった。相変わらずよく分からない所だ。照明器具など一切設置されていないのに壁面全体がぼんやりと光っていて、先が見渡せる程度に明るい。
 板で組み上げられた宮方(みやかた)と呼ばれる小さな祭壇。その手前には畳が三枚ほど敷き詰められている。異常と言えばかなり異常な光景だ。
「二人とも着いたね」
 俺達の前に現れた忍さんは既に着替えを済ませていた。いつの間に、という早業だが確か前回もそんな風だった。そして今回も俺は空気を読んでそこには触れない。
「やっぱりその格好するんですね」
 ようやく背を伸ばし立ち上がった是武が忍さんを見て言った。忍さんは白い柱袴(はしらばかま)に白い水干(すいかん)、黒い高烏帽子という神職独特の装束に身を包んでいる。よく正月に見かける神社の巫女さんのように白衣と緋袴ではない点が特徴的だ。
「一応ここの神官やけんね」
 水干の袖をピンと広げる忍さんは少し自慢げに見える。その仕草がちょっとばかり少女ぽかった事で俺は不覚にもときめいてしまった。そしてすぐさま十年前の失恋の傷が鮮やかに疼きだす。これだけは是武にも話していない秘密だ。
「……前はたしか巫女さん装束やったね?」
 心の傷を表に出さぬように俺はいつもより調子を上げて忍さんに尋ねた。
「結構前に母さんの跡継いだけんね、今は立派な神主」 
 忍さんの答えに是武が俺と同時に「へえ」と声を上げ、その直後ハタと俺へ向き直る。
「お前も知らんかったんか」
「『内向きの話はしたらいけん』っち決まりやったやないか。お前が忘れとうだけっちゃ」
 そう言ってやると「そうやったっけ?」と是武は首を捻った。そういえばこいつはいち早く引越ししていたんだった。
 しかし神社といえどこれほど風変わりな神社もない。俺は二十年ぶりに訪れる『御社』を見渡した。
「千仏鍾乳洞に似とるね」
 ぽつりと洩らした独り言に忍さんが反応した。
「平尾台の? そう言えばそうね。こっちは狭いけど」
 鳥居はあの井関ビルの壁、御社は鍾乳洞。改めて考えるとかなりシュールな光景だ。二十年前は何も知らない子供だったから冒険心と好奇心だけで動けたが、今となっては疑念や不安といったものが鎌首をもたげてくる。
 
 陸と海の境界であり本州と九州の境界だった北九州は、かつて陸と海の要衝として幾度もの戦乱の舞台となった。
 ここ門司は、遥かむかし『もんじの関』と呼ばれ、現在の下関市である赤間関と同様に海の玄関口として利用され、近代化を遂げたのちは港町として大いに発展してきたのだった。
 だが実際に俺たちが二十年前に体験したそれまでの現実を破壊するような体験を経て、俺達の門司に対する認識は変わった。平安の世に『もんじの関』と呼ばれた関はここ、柳町の地下深くに眠っている。それも関は関でも海の関所ではなく、この世とあの世の関所としてだ。忍さんはこの『もんじの関』を守る門の司。わかりやすく言うなら門番、ゲートキーパーだった。
 悪鬼悪霊を関の向こうへと追い祓うゲートキーパー。俺と是武は二十年ぶりにその忍さんの声掛かりでゲートキーパーを努めにやって来たのだ。
「今日もやっぱり、ナントカの魂を呼ぶん?」
「守御霊(まもりごりょう)な。覚えとけや」
 石灰石の壁を撫でながら是武が偉そうに言うのでちょっとムカついた。さっきまで約束の事きれいに忘れとった癖によう言う、と胸中で愚痴る。
「……その守御霊の力っち、本当に意味あるんかな? この二十年色々あったけど、良い事より悪い事ばっかり思い出されるんやけど」
 宮方へ榊を捧げていた忍さんが振り返る。この二十何年かを門の司として生きてきた彼女としては絶対にいい気分はすまいが、全部言ってしまわねばこっちも後味が悪い。
「――ホラ、この二十年の間に大きな災害はようけあったしさ、テロもあったし、景気なんか全然ようならごとあるし」
 是武が何も口を挟まないのはある程度俺と同じ事を考えていたからだろう。
「じゃあやめる?」
 忍さんの答えは素っ気ない。
「――でもね、アッちゃんと違ってこの『もんじのせき』に集まって下さった守御霊さまはそうは思ってはいらっしゃらないみたい」
 宮方の前の板台に置かれた御幣(ごへい)が風もないのに揺れていた。
「門司は九州と本州の境界で、海と陸との境界でもあったけん戦争が多かった。門司周辺で亡くなられた御霊はその恨みや無念を鎮めたもうた後でかかる災厄から守ってくださるよう力を貸してくださっている」
 忍さんの声に合わせてどこからともなく太鼓の音が鳴り始めた。初めは鼓膜を擽る程度だった太鼓はゆっくりと音量を増してゆく。
「『もんじの関』を守り、悪しき災霊におかされぬよう、妙なるおちからをもって――」
 なんだか忍さんの様子がおかしい。
「――もろもろのまがごと、つみけがれあるをきよめたまへ、はらいたまえへ――」
「……忍さん?」
 おそるおそる是武が声をかける。急に口調が変わった忍さんは手にした御幣を左右に振って祝詞を上げ続ける。
「――たふときみたま、やぬちおだひにみをまもり、ひをまもりよをまもり、みめぐみをたれたまふを、たたへまつりいやびまつり――」
「なあ、ちょっと?」
 俺がそっと横から顔を除くと忍さんの端正な顔は血の気が引いたように白くなっていた。これはまるでトランス状態じゃないか。ナショナル・ジオグラフィックTVの番組でアフリカのシャーマンがこんな風になったのを思い出した。太鼓の音は荒れ始め、さらに笛の音も加わった。大積天疫神社の大積神楽のようだ。しかし誰も面をつけて踊ったりしないので神楽と呼ぶのは違うだろう。
「おいアッちゃん……どうすんの、これ」
「ちょっと様子見とこうや」
 迂闊に触れるのも怖い。俺たちをよそに太鼓と笛も盛り上がりつつある御社の中で、抑揚のない忍さんの声が鍾乳洞の壁にくぐもって反響する。
「――いかしきあらみたま、ひとのちからにおよばざるもろもろのわざわひをとほくはらひふかくしずめ――」
 玄妙、と呼ぶべきなのか定かでないが太鼓と笛の音の中で祝詞を上げ続ける忍さんの姿はどこか荘厳で美しかった。現実感が褪せているのも相まって、このまま忍さんに付き合うのも悪くないような気がしてくる。……たとえこれから俺達のやる事に何の意味もないのだとしても。
「――ゆくりなきこころよわりをみゆるしたまひ、いさみたたしたまひて、つよくおおしくまもらせたまへ……」
 祝詞の声はゆっくりとトーンを絞られゆき、最後に忍さんは宮方に向かって緩やかに拝礼した。ひたすら不安に苛まれながら祝詞を聞いていた俺たちはとりあえずほっとした。
「終わったっぽいな」
 そう零した是武に頷く。忍さんは丁寧に拝礼を繰り返したあとでやっと俺たちへ向き直った。目がちょっと怒っているように見えるのは俺の錯覚などではないだろう。そう思った途端に忍さんに腕を引っ叩かれた。
「あいた!」
 大げさに痛がって腕をさすったが忍さんは真剣なようだ。
「アッちゃんがあんな事言うけん御社の気が乱れたやん」
「……『気』って」
 一般生活に馴染みのない単語が出てきたので俺は一瞬ぽかんとしてしまった。
 なんて稚く、漫画っぽく、そして甘美な響きなのだろう。気。しかし考えてみれば俺達の現実は二十年もむかしにその稚く漫画っぽい世界へと繋げられてしまったのだ。
「……俺が弱気吐いたのがいかんっちこと?」
「そりゃそうよう。守御霊さまは今もこうして、あたしたちを見ていらっしゃるんやけん」
 この忍さんの言葉に乗っかるように是武が笑った。
「弱気はいけんぞ」
「しゃあしい」
 不思議な事にそれまで俺の胸中に渦巻いていた疑念や不安はすっかり取り除かれてしまっていた。これが『御社』の気を鎮めた祝詞の効果なら大したものだ。
「そろそろ良いね?」
「……お手数かけます」 
 語気に鋭さがあって俺は完全に怯んでしまっていた。元気のない返事にかつての『姉ちゃん』の血が騒いだのか
「シャンシャンせんね! 男やろ!」
 忍さんが叱咤の声を上げた。いい年こいてこんな風に言われるのは結構つらい。
「すいません。もう大丈夫です」
 有無を言わせぬこの空気。不安や疑問をぴしゃりと吹き飛ばすオーラとでも呼ぶべきこの気迫。確かにそうだ、二十年前と何も変わりがない。 
 忍さんは再びゆっくりと拝礼する。その途端にふわりと身体が軽くなった。
「もう始まってる?」
 声に出そうとした。しかし俺の声はなぜか遥か遠くで鍾乳壁に跳ね返ってぼわんと反響した。違和感に気付き足元を見下ろすと、俺の身体が棒きれのようになって畳の上に転がっている。その様子をとなりで見ていた是武はあわてて畳の上にあぐらを組んで座る。なしてお前はそんな余裕あるんかちゃ、ズルかろうが。そう発した意識は拡散する前にすぐに霧となって消えた。
 ――俺の霊魂はすでに守御霊の中へと取り込まれていた。
 まるで地の厚い毛布にでも包まっているかのように温かい。繊維のように数限りなく編まれている古き御霊の思念が俺を完全に守り、包み込んでいるのだ。
 その中で、俺は俺の思念が守御霊のそれと混交し、雑多になってゆくのを感じた。数多くの意識、感情、そして荒々しい歴史の濁流が通り抜けてゆく。忍さんへの片思いや是武への心配も今は余計だった。澄み尖ったただの守御霊となるべく『俺』の魂はより鋭くより自然な形へと削ぎ落とされてゆく。『俺たち』の澄み尖った魂こそ守御霊が悪鬼悪霊と戦うために必要な素材だからだ。
 もんじの関の石壁を守御霊は突き抜けた。それと同時に守御霊は二つに分かれた。『是武』は『俺』に追いついていた。だがそれも、かつて是武であった霊魂と呼ぶにすぎない守御霊の一部だ。
『この関をうまいこと守り通したとしたって、こんなバカみたいなこと誰にも自慢できんな。それがちょっと悔しいわ』
 守御霊から削り落とされた霊の欠片がそう笑った。
 和御魂を強め守御霊は闇を切り裂いてゆく。『俺たち』の旧友だった神官は無心に祝詞を捧げている。その声が力となる。それを強く感じる。既に此岸を超え、守御霊は異界へと突入していた。高度を上げて闇を突き破るとそこには何の異変もない北九州の夜景が広がっている。守御霊は巨大な大鷲に姿に変え、青く光る炎を夜空へと吐き出した。黒雲の群がってゆく遥か彼方で目を晦ます凄まじい光が炸裂する。
『何もいい事なんかないんかもしれん。俺はこれが片付いてもハロワ通いやし』
 守御霊の片方から霊が散ってゆく。
『そうかもな。でもさ是武、俺は今日ここに来てよかったーっち思った』
 守御霊は光弾を次々に吐き出してゆく。羽ばたきと同時に数々の霊の欠片が撒き散らされる。
『もし、うまくいったら。こんなふざけたこと誰にも言えんけど、ちっとは誇りみたいのが持てる。今よりは前を向いて生きていけるような気がするっちゃ』 
『世界を守ったヒーローやけんな、俺らん』
 戯れるように翼を叩き二羽の守御霊はより深まってゆこうとする闇を切り裂くかのように飛翔し、光弾を撃ち込んでゆく。





*ちょっと誤字脱字修正しました

1 件のコメント:

雨森 さんのコメント...

『きたたん』の門司のやつ、一応書き上がったので投稿します。
偉いことお待たせして申し訳ありませんでした。