2012年4月16日月曜日

チップの話


本当は糸島翔樹という立派な名前がある。しかしチップはずっとチップという名前しか使わなかった。八歳年下の弟であるタップも本名は雄星というが、その名前を自分から名乗った事はない。

自分で自分の名前を決めるという事は、彼らにとって大切な儀式のようなものだ。大人の作った世界と決別し、自分たちの世界を創造するためには、親から貰った名前は捨てなければならない。
『なぜそんな事をするのか?』と聞かれれば、そうでもしないとやってられないからだ、としか答えようがない。とてもとても悲しく辛くて、やってられないから、それまでの名前を捨てて別の生き物として生きていくしかないのだ。
そういった決まりごとをいつ、誰が決めたのか、チップは知らないし興味もない。ただ、そいつはきっと自分たちと同じなのだろうと思うだけだ。
「お前らの名前って犬みたいだな」
チップとタップを馬鹿にする連中もいるが、チップはそういう奴らを例外なくぶちのめしてきた。勢いが過ぎて殺してしまう事もあるし、逆に殺されかけた事もあるが、まだ小さい弟を守るためには侮辱に負ける訳にはいかなかった。タップはそんな強く優しい兄を慕っているのだし、チップもそうあり続けたいを思っているからだ。

ある時チップは群れのリーダーだった。
彼に付き従うのは例外なく他の群れを追われたはぐれ者ばかりだ。体が大きく気は荒いが知恵の回らないビンゴに、無口で無愛想だが物知りで機転の利くカブト。綺麗だった顔を大ヤケドした事で群れから捨てられたアジサイ。そして新しく『向こう』からやってきた長谷部純だ。
長い間のうちに時々、こういう新参者が『向こう』からやってくる。その時、大抵新入りは家族を探す。この純も同様だった。
しかしどこを探したってそんなものはいない。あるのは家らしき残骸と家族らしき者の残骸だけだ。ビンゴがその残骸のひとつを『使って』いる所で純は『向こう』からやってきた。彼はビンゴが犯しているそれが彼の姉である事に気づいてパニックを起こしたが、こういった光景は飽きるほど見てきたチップたちにとって特別哀れみをかける必要性も感じなかった。チップは長谷部純を殴りつけておとなしくさせ、それまで何百回と繰り返した説明をここでもまた繰り返した。

――この町にはもう大人はいない。頼れる両親も警察も自衛隊も消防士も政治家も役所もない。ずいぶん遠くから旅をしてきた者から聞いた話では日本中がそうなのだという。嘘かもしれないが、こんな状態である町を大人が放っておくとも思えないから、多分本当なのだろう。
ある日大人は全員が抜け殻になってしまった。体はそこにあるが、魂がない。生きてないけど死んでもいない、ただのモノになってしまった。家族の傍を離れられない子供も大勢いたが、大体が死んでしまう。抜け殻に魂が戻るのは子供だけだ。たぶん半分が大人で半分が子供だからなのだろう。だが大人が戻ってきた噂は全部ただのデマだった。
子供たちは大人の帰りを待ち続けて待ち続けて、待ち続けた結果、ひとつの結論を出した。もう二度と大人たちは帰ってこないのだと。だから親からもらった名前を捨てる。捨てなくては強くは生きられないのだ。
一方でそれでも帰りを待っている子供はいる。だがチップは、そういった家に引きこもって両親の残骸と待ち続けている子供をカモにしている。コンビニやスーパーマーケットは粗方が強い群れに支配されている。チップはそういったリスクのある冒険は避けて食料や水を溜め込んでいる一軒家をよく狙った。人を殺して物を奪う事に最初は強い罪悪感があったが、長い時間が過ぎるとそれも薄まっていった。

純はチップの話を呆然としたまま聞いていた。簡単に『こっち』の世界になじめる訳がないのは折込み済みだが、この少年は泣き喚いたりしなかったし頭が壊れた訳でもなかった。
「僕の名前はリッパー」
長谷部純は自分で今までの名前を捨ててリッパーになった。この時は気づかなかったが、後になってリッパーの家の残骸を覗いた時に床に残った黒い血の痕跡を見て少しわかった気がした。おそらく彼は、抜け殻になる前に自分の両親を殺していたのだろう。
リッパーはカブトが教えてくれたその名の意味する凶暴さは少しもない男の子だった。だが自分の姉の残骸を犯したビンゴと衝突もなくそれなりに付き合っている所を見ると多少は壊れてしまっているのだろう。そうでないと生きられない、とチップは思う。まず生き抜く事を考えるのがチップたちの世界の子供たちの義務だった。

なによりチップたちは生きていかねばならない。チップは弟が残骸になってしまう事を何よりも恐れた。チップとタップは嫌というほど残骸を見てきたが、子供たちは一様に他人の残骸で遊ぶのが大好きだ。かわいいものは落書き程度だが、猟銃の的にされて頭を吹っ飛ばされたり、ピラミッドのように何十体も積み上げられたりする光景もよく見かける。子供たちには残骸は大人だけではなく死んだ子供も他人ならば残骸でしかないのだ。弟をああいう風にだけはさせたくない、とチップは思う。そのためにはタップが大きくなるまでチップが生きて守り続けなければならない。それ以外の事は考えないのがチップが生き抜くためのルールだった。

――だが、いつになったらタップは大きくなるのだろう。そう考えるといつもチップの心は冷えてゆく。恐ろしい程の長い時間が過ぎている筈なのに、この町の子供たちはチップも含めてみんな大人にはならないのだ。
もしかして、これが地獄というものなんだろうか。そうチップは時々考える。だが、もしそうだからと言って何が変わるのだろう。心の冷えに任せれば本当に壊れるしかない。チップはこの世界に踏みとどまって今日も群れを率いて住宅街を襲う。




2 件のコメント:

takadanobuyuki さんのコメント...

大人がいなくなった世界。子どもだけの世界。ちょっと想像しただけでもかなり興味深い。なんらかを抽象化するのに有効な設定だと思います。大人たちが風化しない残骸として体を晒す異様な光景。その傍らで生けるものとして飢え傷つき死んでゆく子どもたち。・・・この殺伐とした雨森版「子どもの世界」の唯一の温かみは近しい者との絆のようなものを信じる兄弟の様子。それこそが生きる理由。しかし、それすらも掻き消えそうな地獄で最後に残るものは何か・・・?

雨森 さんのコメント...

感想ありがとうございます。ご覧の通りのどうしようもない話でしてどうやって着地させるかさえ考えてもなかったのですが投稿に合わせてちょっとストーリーを練り直しています。