2012年4月30日月曜日

宮野蓮の話



 宮野蓮は自分の名前を捨てられない子供のうちの一人だった。
 あの日、町に住む全ての大人が残骸となり、子供だけが残された。それから長い長い時間が過ぎ、親や大人たちの助けを待ち続けていた子供たちは一人一人と諦めていった。その証のように、それまでの名前を捨てて自分で決めた名前を名乗る子供が現れると、それは瞬く間に子供達の間に広まりちょっとした決まりごとのように定着していった。
 そんな中、蓮は頑なに宮野蓮であり続けた。名前を捨てる習慣がルールとなってくると、名前を捨てた子供からは捨てられない子供がただの弱虫にしか映らない。中学では二年生までバスケット部に所属していた蓮は大柄で力も強かったが、親から貰った名前を守り続けているという一点で多くの子供からは侮られた。
 侮蔑に忍び耐えるような気性を持合わせない蓮はそういう子供を片端から痛めつけたが、力自慢の蓮でもさすがに大きな群れを敵に回せば命はない。蓮は四人の小さな群を従えて大きな群れから避けつつ生き続けた。
 アジサイはそんな蓮の群れの中でたった一人の女だった。少し前までは大きな群れのリーダーの女だったらしいが、女同士の争いからか顔に薬をかけられてひどいやけどを負い、それまで可愛がっていたリーダーからも見捨てられ、群れを追われた。蓮は最初アジサイを群れのための慰めとして拾ったが、少しずつその心を失くしたような少女に親近感めいた思いを抱くようになった。
 やけど。蓮は背中の左側に大やけどを負っていた。『あの日』より約一年前、蓮の自宅が放火に遭った時の傷だ。その時に蓮は母親を亡くし、蓮自身も意識不明に陥るまでの重傷を負った。彼がなんとか父親の元に帰れる身体になった時、もう母はこの世に存在しなかった。葬儀も火葬も済み、小さな骨壷に詰められたそれを蓮はどうしても母と思う事ができなかった。蓮から見れば彼の母親はこの世から消え去ったのだ。それは全部の大人が残骸となったこの町で生きる蓮には振り切れない絆だった。母は今もどこかで蓮を見守っている。そういった幻想が、蓮に名前を捨て去る事をためらわせていた。
 同じやけどを負っただけで、事情も生き方もまるで異なるアジサイに不思議な気持ちを湧かせるのは、単なる親近感だけではなくアジサイに消失した母を見ていたのだが、この時の蓮には思いもつかない事だった。
 そしてまた長い時が過ぎ、蓮はおかしな兄弟に出会った。それは騙まし討ちで襲撃をかけられるという形で。
 かつての閑静な住宅街は、蓮の率いる小さな群には格好の狩場だった。金に意味のないこの町ではマンションやアパートは大きな群れにとっては狩る旨みがあまりなく、その割に縄張りの維持に人数を割かなければいけない。そのため住宅街には中小の群れが割拠しており、空白地帯も多かった。蓮たちは彼らの縄張りの隙間を縫うように略奪を繰り返していたが、蓮の頭には逆に襲撃をかけられるという予想がなかった。忍び込んだマンションの一室で物色に励んでいた蓮たちは玄関と和室の二つのドアから挟み撃ちに遭った。息を呑む間に二人が殺されると蓮は金属バットを振り回して抵抗したが、背後から全身を裂くような衝撃を浴びて五体の制御を失い、埃の積もったカーペットに崩れ落ちた。
「なんでやらないんだ」
 リーダーらしき少年が血に濡れた包丁の刃を倒れた蓮のジーンズで拭いながら言った。蓮の身体は主人の言う事を聞かない。
「これ、試してみたかったから」 小柄な少年がスタンガンをリーダーにちらつかせた。蓮は自分の身に起こっている異常の原因を理解した。
蓮はこれから先に起こるだろう事態に心を凍らせたが、リーダーの少年はだらしなく寝転がっている蓮の近く顔を寄せると「俺達の群れに入らないか?」と勧誘してきた。
 チップとタップの兄弟に「アジサイを守ってくれるなら」という条件をつける事で、蓮は兄弟の群れに入ることになった。チップはおそらく蓮よりも年下だが蓮よりも冷静で言動に自信が見られるリーダーだった。いつからか自分が群れの長には向いてない事に気付いていた蓮は屈辱と同時にどこかで安心していた。
「なんでお前は名前を捨てないんだ?」
 何度となくチップは蓮に聞いてきたが蓮は一度も答えなかった。チップは頼れるリーダーだったが母の話などできる相手ではない。蓮が思いを傾けているアジサイは蓮の気持ちとは裏腹にチップの群れに順応しようとしてか更に感情を隠すようになった。
 ある日、チップたちの群れは町はずれにある古い木造の一軒家に忍び込んだ。そこで蓮は唐突にそれと出会った。
「これなんて読むんだ?」
 備後守光貞。そう書かれた看板のような木の板の隣にガラスケースに入れられた日本刀が飾られていた。蓮に顔だけよこして漢字をひと睨みしたチップは「びんごのもりこう……?」と言った後で確信なさげに首を捻った。
 蓮はガラスケースを壊さずにそっと持ち上げた。いつもは粗暴さを表に出して憚らない蓮はその日、どこか神妙な気分になっていた。鞘から抜いた一振りの刀はまるで蓮の心に残る何かをすっぱりと切り捨ててしまうような、ぴんと張り詰めた空気を帯びていた。
「チップ。もっかい読んでくれよ」
 蓮の願いをうるさげに顔をしかめたチップだったが「びんごのもりこうぜん!」と怒るようにもう一度読み上げる。さっき読んだのと少し違う気がしたが蓮は何度か頷くと、「じゃあ俺は今日からビンゴって名前にする」と仲間に宣言した。
「そっか。おめでと」
 チップの弟のタップがよくわからない祝いの言葉を口にして拍手した。
「――ってことは、持ってくのか? その刀」 弟には同調せずにチップが蓮の刀を見て言うと、連は少し嫌な気分になった。
「いいか?」
「俺はこれでいい。欲しいなら持ってけよ」
 チップは腰にぶら下げている包丁を叩いて言った。柳刃包丁という細長い刃物だ。
「よろしく、ビンゴ」
 無愛想にそう告げるとチップは家屋の物色に戻っていった。リーダーから許可が下りた蓮はびんごのもりこうぜんという名前の刀を改めて眺めるとベルトに手挟んだ。
 ずしりと重い刀をそのまま抜き放ってみると、なんだか一回りも強くなったような気がした。



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