2012年6月2日土曜日

半鐘を鳴らす手・完結篇

  俺たちは現状維持に気を配りつつ、横目で今井の姿を追う。
  今井は疾走し、敢闘門そばまでたどり着いた。だが自転車はタイヤを擦りつつ、壁に激突する。
 今井は落車して転がった。
  俺たちの自転車、ピストにはブレーキが付いてない。今の状況下では壁に当たって止まるしかなかった。ここまでは今井も計算していたはずだ。しかし、アイツは運がなかった。
 落車したときに足をひねったらしい。
「今井!」
「いま行くぞ、今井!」
 俺と立川さんは叫んだ。 
  俺たちは裏切り者であろうと、今井を助けたかった。
  危険を承知で、打撃の手を一方向に集中する。俺たちはわずかに今井に近づいた。だが、痛みを感じない様子のゾンビたちが、すぐに立ちふさがる。 
  今井は立ち上がったが、のろのろとびっこを引きながら門へ向かう。
 そこを黒服の運営員に捕まった。さらに、赤シャツの競輪選手が今井の肩を押さえ、肉に噛み付く。
 そばの階段から、破れたスーツを着た者や、他の競輪選手が上がってきて、今井に群がった。一度捕まれば終わりだ。
「うわぁあああああっ!」
 今井の絶叫が響き渡る。
 俺たちの周りのゾンビが、それを耳にしてよだれをたらし、注意を今井に向けた。
 立川さんが声を張る。
「今井の犠牲を無駄にするな! 一発食らわしたあと、門までダッシュだ!」
 立川さんは、今井の裏切りを美談に変えた。細かいことにこだわる必要はない。
 俺は号令を出した。
「いまだ!」
 俺たちは自転車を振るい、レンチで殴りつけ、最初の囲みを突破した。
 俺たちは駆ける。
 進路上に存在するゾンビは、こちらか今井か躊躇した隙に殴り飛ばす。
 うまく行っている。今井の新鮮な血の臭いが、奴らをかく乱しているに違いない。
 ゾンビたちが群がり咀嚼する、今井の近くを通り過ぎた。今井はひどい有様だった。首が外されていたので、もう蘇ることもないのかもしれない。
 貪欲な二体のゾンビが、俺たちを目にして立ち上がった。他に追ってくる者もいた。
 だが、その時俺はたどり着いていた。
 白く輝く敢闘門に。
 俺の背後で、村田がゾンビを打ち据えながら言った。
「開けろ、知己島!」
 敢闘門には、目の高さの位置に外を覗ける隙間が付いている。
 だから俺には見えていた。
 それでも俺は敢闘門の右半分を引き開けた。
 そして、絶望とともに呟くしかなかった。
「もう……逃げ場がない……」
 強烈な腐敗臭が鼻をつきぬける。
 バンクを取り巻く無人のはずの観客席には、おびただしい数の生ける死者がうろついていた。目の前の競技バンクはドームの二階にあり、その内側はすっぽりと抜けている。床が一階にあるアリーナだ。そこも爛れ傷ついたゾンビたちでいっぱいだった。
 俺たちの晴れ舞台、バンクの上も。
 そこかしこに小さな群れができ、競輪選手や審判員が、倒れた仲間を喰らっていた。
 誰がドームへの入り口を開けたのかは、もはや問題じゃなかった。
 この北九州メディアドームの外、小倉北区の市街は、すでに奴らが溢れているのだった。
 俺たちが宿舎に入ったころには、静かに始まっていたに違いない。
 小倉では暴力事件が多くなっているようだから気をつけろ、と注意されていた。
 俺は、いつものことだと気にしなかったが、それは前兆だったのかもしれない。
 今晩、この今、臨界点に達し、迸るように街を支配した腐敗と飢餓の。
 どよめきのような唸り声がドームを満たしているせいで、気付くのが遅れた。
 俺は唐突に左足をつかまれ、アキレス腱を食いちぎられた。
 足のないゾンビが、敢闘門の裏側に潜んでいたのだった。
「畜生が!」
 俺は激痛が襲ってくる前に、そいつの頭を蹴り飛ばした。身体を支えきれずに倒れる。
「よくも知己島を!」
村田が横に飛び出してきて、フレームでその頭を刺し貫いた。
 俺は左足全体に広がる痛みに起き上がれず、脂汗をかいてうめく。
 立川さんと安達が飛び出してきて、門の左右に回る。門を閉じ、端から押さえて開かないようにした。
 村田が肩を貸して立たせてくれた。
「しっかりしろ、一口やられただけだ!」
「ああ、ああ」
 俺はなんとか答えたが、痛みは左半身に広がり、痺れかけていた。こんなのは普通じゃない。もう、長くはないと直感した。
 敢闘門が内側から激しく連打される。
 門を押さえながら、立川さんが言う。
「どうする? 外も奴らでいっぱいだ、逃げ場がない!」
「でも、外に出ないと助かりません!」
 村田が怒鳴り返した。
 敢闘門がたわみ始め、安達が悲鳴のような声を出す。
「ここも、もう持ちません!」
 この騒ぎで、バンク上でもこっちに気付いたゾンビが出てきた。
 俺は言った。
「やづらがきづいだ……」
 自分の言葉に衝撃を受けた。口が回らなくなっている。
 立川さんが諦めたように門から離れた。
「ここはダメだ。バンクのほうに下がろう。安達、離れろ!」
 俺たち四人は再び固まり、周囲に目を配りながら、ゾンビのいない方、バンクの内側へ移動していった。
 俺は村田に支えられてついていく。
「ふんばれ、知己島。俺たちは助かる、助かる……」
 村田の励ましが、俺の意識をつなぎ止めていた。村田は頼りがいのある奴だ。うまそうな腕をしているだけはある。
 俺は一瞬の連想を打ち消した。
「うぐぅぅぅぅ……」
 唸って人間の魂を奮い起こす。友情を思い出す。
 バンクを横切ったところで立川さんが動きを止め、小声で言った。
「……どこへ……行く?」
 俺たちはバンクの内側で追い詰められていた。血まみれの腐りかけた奴らにぐるりと囲まれ、そいつらが呻きとともに輪をせばめてくる。
 敢闘門もこじ開けられ、中からゾンビたちが溢れ出す。
 奴らにも感情の名残りがあるのだろうか。俺たちに逃れる術がないと知り、まるでこの状況を楽しんでいるように、ゆっくりと近づいてくる。
 このままでは誰も助からない。
  俺は決意した。
「お、おでがおどりに……なる!」
 そう言って振り上げたレンチが固いものにあたり、甲高い音が響いた。
 レンチが、釣鐘型の半鐘に当たっていた。小倉競輪場だった時代から引き継がれ、中央が虹を意味する五色、アルカンシェルに塗られた半鐘は、俺の後ろに吊り下げられていた。
 その音が鳴り渡った瞬間、生ける死者たちの唸りが止み、動きが止まった。
 俺たちも息を呑む。
 それから、俺の頭がまだ機能することを、何かに感謝した。
 俺はレンチで半鐘を続けざまに打ち鳴らした。ちょうどレースで最後の一周が始まるときのように。
「ヴおおっ、ヴホッ……」
「オオオッ、ボホォ……」
 半鐘の響きに連れて、ゾンビたちに動揺が走る。俺たちに対する興味をそがれたように、濁った目で辺りを見回している。
 俺はさらにレンチを振るった。
「ヴホッ、ヴオオオッ」
 口々に喘ぎながら、元競輪選手だった屍たちが、とうとう自転車に手をかけ始める。
 そして生前とは比べられない拙さだったが、自転車でバンクをよろよろと走り始めた。
「オオオオオッ!」
 足が完全じゃなくなっている者たちは、地面を叩きながら悔しそうに唸る。
「どういうこった……」
「何をした、知己島?」
 安達と立川さんが呆然と呟く。
 俺には分かっていた。失くしかけの人間性からの最後の贈り物に違いない。
 周囲に存在する腐りかけの者たちは、死してなお、このメディアドームに引き寄せられてきた。生前は相当な競輪好きだったはずだ。
 さらに競輪関係者なら、この鐘の音を聞いて奮い立たないわけがなかった。
 溶けかけの脳から、魂の残渣を蘇らせる。
 かき鳴らされるジャンの連打には、その力があったのだ。
 俺の身体からは痛みが消え失せ、ふわふわとした麻痺感に包まれていた。ただ、飢えと乾きだけがだんだんと募ってくる。
 もう自力で立っていられるので、村田の腕を振りほどいて言った。
「むらだ……」
 半鐘の音で聞こえなかったらしく、村田は顔を近づけてきた。思わず、よだれが湧いてくる。俺はこちら側に踏みとどまりながら言葉をつむぐ。
「むらだ、いまならいげる……じか通路から宿舎に逃げろ……おではのごる……」
 敢闘門からは、残った競輪選手が自転車で出てきてバンクを走り始めていた。運営員やスーツを着た関係者の何人かも自転車に乗っている。彼らも観衆の見守るバンクを走りたかったのだろう。
 他のゾンビたちは低くのどを鳴らしながら、よろよろと走る自転車を惚けたように見つめる。
 村田が肩をつかんできた。
「知己島、おまえをおいていけるか!」
 俺はもう、いつまで喋れるか分からない。
 半分だけ欲望に従い、歯をむき出して言った。
「おまえを食いだい」
 村田は一瞬目を見開き、それから後ろを振り返って、安達と立川さんに何事か伝えた。
 半鐘の音と死者の唸りが混ざる中、安達が無言で俺に頭を下げた。立川さんは目を閉じ、俺に向かって合掌する。
 村田が大声で訊いてきた。
「最後にできることはないか、知己島」
 俺の飢えは限界に近かった。正直に言わずにいられなかった。
「腕を一本おいでいげ……ゆびざきでもいい……ちょっどでいいんだ……」
 村田はうつむき、目からうまそうな汁を流しながら言った。
「腕はやれん、知己島。だが、おまえのことは一生忘れない!」
「そうが……いげ……」
 俺は心底がっかりしたが、まだ分別はわずかに残っていた。
 村田は口元を押さえながら、安達と立川さんを促して敢闘門へ向かった。
 ゾンビたちは目もくれない。
 俺の肉たちが遠ざかっていく。俺の肉、俺の大事な肉……だからこそ守らなければならない。俺は欲望と魂の狭間で叫んだ。
「ヴぉおおおおおおおおッ!」
 首をのけぞらせて叫びながら、必死に半鐘を叩き続けた。
 腐りかけの観衆が見守るなか、血みどろで傷だらけのレーサーたちがバンクを回る。膿と内臓をこぼしながら。
 村田たちがどうなるのか分からない。
 だが、俺は続けなければならなかった。
 このメディアドームで最後の競輪を。おそらく北九州で最後の競輪を。
 もしかしたら、地上で最後かもしれないミッドナイト競輪を。
 この半鐘を鳴らす手が、腐り落ちるまで。
 すべてが無害に腐り果てるまで……。


「半鐘を鳴らす手」もしくは「ミッドナイト競輪of The Dead」完

 無計画書房版特別エンディング
 すべての惨劇は過ぎ去った。
 小倉の街は静かな朝を迎える。
 街のいたるところ、通りの隅々に干からびた無害な屍が横たわる。
 息吹の気配が無いなかでも太陽は昇り、北九州メディアドームを照らした。
 自転車競技に使われるヘルメットを模ったといわれる、滑らかなフォルムが白銀に輝く。
 そのメディアドームを望みながら、一人の男が歌っていた。
 がっしりした肩から吊り下げたギターを、無心にかき鳴らしながら。

 オーイ 夢のラップもういっちょ
 さあ 夢のラップもういっちょ
 
 弔いの歌は風に乗り、孤独に流れていった。

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