2012年5月12日土曜日
無計画リレー小説 第九話
【登場人物】
古屋勇太‥‥十九歳。小説家志望のフリーター。祖父の営む古書店でアルバイト中。
美園さおり‥‥十七歳。高校生。勇太の幼馴染で、美園屋青果店の一人娘。
古屋繁‥‥勇太の祖父。古書店を営んでいる。
古屋一雄‥‥勇太の父。
ジェイムズ・J・ジェイムズ‥‥伝説の作家。
唯一髪‥‥モヒカン。
美園軍司‥‥さおりの父。両刀使い。
James・J・ James
ジェイムズ・ジェイ・ジェイムズ
じぇいむずじぇいじぇいむず
ジェイムズはジェイムズであってそれ以外の何者でもなくジェイムズである。
ジェイムズのものはジェイムズへ。
イサクの息子にしてイスラエルの民の祖、ヤコブの名に由来するこの姓名、様々な変遷をたどり多くの国の言葉に兄弟を持っている。
英語ではジェイムズ、あるいはジェイコブ。親しければジミーにジム。
姓と名前、両方に適用できる名詞ということでやはりというか、案の定というか、ジェイムズ・ジェイムズというハープ奏者が現実にいたりもする。
そしてまたややこしいことにジェイムズ・J・ジェイムズという作家がいる。
Jと記載されているミドルネームが何ぞやというのが大いに気になるところではある。
やはりここはジェイムズであろうか。あるいは全く関係なくジョシュ、ジェイソン、ジャックにジョンなどといった全く期待はずれなものかもしれない。
何の意味もなくジェイというのもありえなくはない。
もしかしたらJudahなんてことも……?ユダ……猶太……勇太?
いや、まさまさか、そんなわけ……。
閑話休題
「まだ、その時ではなかろうて」
一雄の鳩尾を強打した拳の主は、金髪碧眼の男。右腕だけが奇妙に肥大化し、鉱物を思わせる鉛色の光沢を持っている。
ジェイムズ・J・ジェイムズである。
「ぐ、とうとうこの階層まで登ってきたか」
「たやすいこと、これだけ物語が無計画に拡大して行けば、もはやメタ階層とて安全ではないのだよ」
動揺の色を顕にする一雄に対して、繁は落ち着き払った調子でジェイムズを見据えている。
「無理はするものではないぞ、ジェイムズ」
「無理?何のことかな?」
「では、問う。貴様の真の名は?」
「馬鹿な。我が名はジェイムズ。ジェイムズ・J・ジェイムズである!」
「はずれだ」
金色の髪が次第に色を失い、碧色の目に濁りが生じる。はっきりとしていたはずのジェイムズの存在感は次第に薄れ始め、ぼんやりと、とらえどころのないものとなる。
「貴様ぁ何をしたぁ!?」
「たとえ偉大な作家であろうとも、己自身の物語を諦めた貴様等に我が孫が負けるはずがないのだ!往ね!ここは貴様の来るべき場所ではない!!」
遠くまで響くような断末魔。
とても遠くへ響いていく。
とても、とても、遠い場所。
例えば、火星とか。
「ジェイムズの反応が消えたよ、ジェイムズ」
「やはりまだ早すぎたのかな、ジェイムズ」
「ジェイムズの代わりはいくらでもいるよ、ジェイムズ」
「そうだな、ジェイムズ」
火星の丘の上、5人のジェイムズが天を仰ぎながら、感情のこもらない言葉を交わしている。
「目標の様子はどうだ、ジェイムズ」
男型のジェイムズが問う。
「やっと目を覚ました様子だよ、ジェイムズ」
女型のジェイムズが答える。
「ではまずは小手調べといこう、ジェイムズ。量産型ジェイムズを目標を中心とし円周上に展開。対角線上の味方に注意しつつ、包囲、そして潰せ」
男か女かわからないジェイムズが指示を出す。
それをもはや人間の形ですらないジェイムズが原稿用紙に書き連ねていくのだ。
「軍神の星で戦争なんてなかなか粋な展開じゃないかね?ジェイムズ」
目を覚ませば何時もと変わらぬ火星があって、いつもと変わらぬ光景が、広がっていなかった。
白色の鎧に身を包んだ何者かが、勇太たちの様子を窺っている。手には銃をもち、鎧の方には「J」の文字が刻まれている。
その兵士たちが全方位に一定間隔で並んでいる。
「味方?」
「そんなわけないでしょ」
兵士たちはじりじりと距離を詰め始め、勇太達を射程距離に捉えつつある。
「さおり、大根は!?」
「この前全部おろしちゃったわよ!」
慌てふためく二人を他所に、ジェイムズたちの進軍は止まらない。
「考えて!」
「え?何を!?」
「思い描くの!思いつく限りの強い武器を!強い兵器を!そして宣言するの「いでよ!」って」
さおりの意図はわからなかったものの問い返すことはやめた。
いつだってさおりは間違っちゃいない。
間違っているのは何時も……。
邪魔な考えを振り払い、今は思考に集中する。
武器、兵器、強いやつ。
ジェイムズたちは立ち止まり銃を構える。狙いを定め、引き金に指をかける。
「いでよ!」
その時、突然閃光が走り、一陣の雷が勇太とさおりの目の前に落ちる。
小さなクレーターの中心に男の影があった。
長身にして、筋骨隆々、頭にはねじり鉢巻、腰には褌、それ以外の衣は身につけぬ。
褌には威勢のよい「美園屋」の文字。褌ひるがえし、振り返った男の顔には見覚えがある。というか、そんなレベルじゃない。
「お父さん!?」
「おじさん!?」
火星に現れた男は、美園さおりの父、美園軍司である。
「おぉ!さおり!それに勇坊じゃねぇか!うほっ、しばらく見ねぇ間にいい男になったじゃねぇか!」
勇太は心強さを覚えるとともに、背中にうすら寒いものを感じた。
(つづけ)
半鐘を鳴らす手(1)
四月十四日、午後九時。
福岡県北九州市小倉北区、北九州メディアドーム。
その時、俺たち七人は全員、ドーム二階にあるローラー室でウォーミングアップを行っていた。
ローラーはルームランナーの自転車版だ。鋼鉄のローラーの上に自転車を置き、筋肉の具合を確かめながらペダルを漕ぐ。
俺たちが出走するのは十一時十七分。
今日の最終戦であり、今回のミッドナイト競輪の決勝だった。
全員がA級一班に所属し、昨日の夜中に行われた予選で一位を取っている。
下は二十六歳の安達から、最年長は四十二歳の立川さんまで、誰一人とっても侮れない。
だが、俺ももう二十九歳。今がピークだと感じる。S級入りを目指すならば、今日も勝つしかなかった。
そろそろウォーミングアップも十分だ。
そう思ったとき、同期の村田が俺の横に立ち、首をひねった。
「なんだ? どよめきが聞こえないか、知己島……」
「どよめき?」
俺は脚の回転をゆるめ、ゆっくりと車輪を止めた。バーをつかんで身体を支え、耳を澄ます。他の選手がローラーをまわす音しか聞こえなかった。
ペダルから足首を外しながら村田に言う。
「特にどうっていうことはないな。どんな感じだった?」
「どんな感じって……、このメディアドームでどよめきって言ったら、観客の歓声しかないだろ?」
「空耳だ」
俺は断定した。
観客の歓声などあるわけがない。
普通のナイター競輪とミッドナイト競輪の違いは、ただ時間帯だけじゃない。
経費削減のため、ミッドナイト競輪では一人の観客も入場させないのだ。投票券は電話とネット回線を通じてのみ発券され、レースの模様は放映によってだけ観戦できる。
観客のいない閑静としたドームのなか、俺たちは真夜中のしじまを貫いて戦う。
今もバンクではレースが行われているが、どよめきなど起こるはずはなかった。
俺は言った。
「レースに対する集中力が高まってるんだな。武者震いみたいなもんさ」
「そんなもんかねぇ……」
村田の呟きの半分は聞こえなかった。
ローラー室の中央あたりから、ガシャンと大きな金属音が響いて、彼の声を掻き消したのだった。
見ればローラーの立ち並ぶあいだの床に、金属製の格子が落ちていた。
天井の換気口から外れたらしいが……。
日焼けした肌の立川さんが、ドリンクを片手に様子を見に行く。
「こんなもの、自然に落ちるわけないだろう、おかしいな……」
立川さんは格子をつま先でつついた。それから換気口の真下に立って、上を見上げる。
そこへ、人間の上半身が落ちてきた。
腰から下はなく、脊椎と大腸の切れ端が揺れている。その血まみれの上半身は、信じ難いことに生きていた。
「ヴぁあああああぁーッ!」
半身は立川さんにしがみつき、獣のような唸り声をあげて盛り上がった肩に齧りつく。
俺は驚いて自転車に足をひっかけてしまって、尻餅をつくことになった。
「なんだ、コノヤロー!」
立川さんは怒声を張り、半身を引き剥がそうともがく。
村田と今井が駆け寄って、もみ合うようになったかと思うと、生ける上半身を床の上へ放りだすことに成功した。
その生皮を剥がされたような赤黒い頭部に、一番若手の安達が自転車を振り下ろす。
「コノヤロー! コノヤロー!」
安達は叫びながら、何度も自転車を打ちつけた。俺たち競輪選手は上半身の筋力だって相当なものだ。安達の自転車はあっという間に車輪が歪み、使い物にならなくなる。
生ける半身の頭が割れ、その動きとうめきが止まった。紫色に変色した脳漿がはみ出している。
安達はフレームの変形した自転車を投げ捨て、放心したように立ち尽くした。
俺も立ち上がり、恐る恐る近づいていく。
このローラー室にいた七人全員で、死体を取り囲み、見下ろす。鼻腔にまとわりつくような腐敗臭が、辺りを満たしていた。
荒い息をつきながら、立川さんが言う。
「怪我はないか、みんな?」
村田と今井が無事と答え、俺たちの目は立川さんに向けられた。
立川さんの体は黒い血糊でべったり濡れていたが、彼は気丈に言った。
「俺もプロテクターが無かったらまずかったな……怪我はない」
ここにいる七人のうち、俺も含めた半数は、レースのためにプロテクターを身に着ける。シャツの下にはポリカーボネートの鎧があったのだ。人間の噛み付きくらい防げる。だが、眼下に横たわるこの存在はなんなのか?
割れた頭から脳髄を溢れさせる、ボロ雑巾のように傷んだ人間の上半身。顔は腐敗と損傷が激しくて、年齢がわからない。汚れたワイシャツとネクタイを着けていることから、換気口に入って作業をするような者だとも思えなかった。
立川さんに次ぐ年長者、三十三歳の近藤さんが呟く。
「コイツは何なんだ……?」
俺は口をつぐんで一つの単語を飲み込んだ。
ゾンビ……。
それ以外に何がある?
俺の右に立っていた安達が、頭に手を当てて嘆息する。
「お、俺、やっぱり人を殺しちまったのか……いや、でも……」
俺は安達の肩をつかんで言った。
「しっかりしろ、安達! こんな状態で生きてる人間がいるか! こいつは……」
俺は断固として続けた。
「こいつはゾンビだ!」
「よせよ、知己島」
近藤さんが呆れ顔で言うのに、今井も続いた。
「ゾンビなんて理屈が通りませんよ、知己島さん……」
俺は二十七歳の今井に言い返す。
「理屈っていったか、今井。身体を真っ二つにされたうえで、こんなに腐り果てた人間が換気ダクトの中を動き回ってる理屈があるのか? こいつは昨日今日に死んだ奴でさえない」
立川さんと村田は、思案顔で黙っている。
安達と同期、同い年の黒丸が言った。
「どっちにしろ誰か呼んでこないと。死体があるんだから、警察にも連絡しなきゃ」
黒丸は踵を返して走っていく。
このローラー室を出れば、車両を整備する検車場だ。検車場は広く、敢闘門までつながっている。敢闘門、つまりバンクへの出入り口まで行けば、確実に連絡が取れる。
俺たち競輪選手はレースの前日から、このドームに隣接された宿舎に入らなければならない。携帯電話などの通信機器を持ち込むのは禁じられ、外部との連絡は手間がかかる。
もっとも、こんな状況に陥ることは前代未聞だろうが。
警察と聞いて青ざめた安達を励ます。
「安心しろ安達。お前は全員のためにやったんだ。今度は俺たちが守ってやる」
ゾンビには懐疑的な近藤さんも続く。
「そうだな。それは確かだ……」
その時、遠く低い悲鳴が聞こえた。
「黒丸!」
口々に叫んで駆け出そうとする俺たちを、立川さんが押しとどめて言う。
「待て! 俺が様子を見てくる。みんなで危険を冒すな!」
足音を立てないような小走りで、立川さんが両開きの扉を抜けて行った。俺たちも扉の近くに待機する。固唾を飲んで待つこと数秒。足音も高く、立川さんが扉から飛び込んできた。
「黒丸は手遅れだ! 来るぞ、動きが早い!」
俺たちは浮き足立った。
「武器になるものはないか!」
誰かの叫びに安達が応える。
「ピストしかねぇ!」
安達はひしゃげた自分の自転車の代わりに、黒丸の自転車を持ち上げた。
俺たちはそれぞれ自分の自転車を持ち上げ、大鎌のように構えて待ち受けた。
何が来るのか直感では理解しても、理性がやはり途惑わせる。
自分たちの滑稽さに力が抜けかけた時、扉を弾くようにしてそれが現れた。二体のゾンビが。
片方は首がちぎれかけてぶらぶらしている。もう一体は腹がぱっくりと口を開け、内臓が無くなっていた。手には大きなスパナを持っている。
どちらも白いシャツに水色のズボンを身に着けているし、顔に見覚えがあった。検車員だ。さっきまで生きて仕事をしていた人間が、傷だらけですでに腐りかけている。
言葉をかけたくなった逡巡を突かれた。
「ヴォオオオオオオオォッ!」
ゾンビが唸りをあげ、一番前に出ていた安達に向かってスパナを投げつけた。
意外な行動に面食らった安達が、ゾンビの突進を受けて押し倒された。
だが、安達は腕を突っ張ってゾンビの上体を押し上げる。
俺はそこをめがけて、なぎ払うように自転車を振るった。
ゾンビは安達から離れ、ローラー台の上に倒れこむ。
俺はさらに自転車を振るい下ろしたが、ローラー台の横にあるバーが邪魔な上に、腹筋のこそげ落ちたゾンビが起き上がろうとする動きは、まったく予測しにくかった。
とても頭を潰すほどの打撃は与えられない。
もう一体は立川さんと村田、今井が相手にしているが、そっちもうまくいってなかった。
なんとか自転車をふるって千切れかけた首を落とそうとしているようだが、四肢のそろった相手にふらふら揺れる自転車の前輪では分が悪い。
抜け目なく出入り口の扉に立っていた近藤さんが叫ぶ。
「ローラーを出るんだ! ここは袋で逃げ場がない!」
直後、近藤さんの背後から、皮膚のめくれた灰色の腕が巻きつけられた。その腕の持ち主が近藤さんの首筋に喰らいつく。
検車場に併設されている売店の女店員だった。
福岡県北九州市小倉北区、北九州メディアドーム。
その時、俺たち七人は全員、ドーム二階にあるローラー室でウォーミングアップを行っていた。
ローラーはルームランナーの自転車版だ。鋼鉄のローラーの上に自転車を置き、筋肉の具合を確かめながらペダルを漕ぐ。
俺たちが出走するのは十一時十七分。
今日の最終戦であり、今回のミッドナイト競輪の決勝だった。
全員がA級一班に所属し、昨日の夜中に行われた予選で一位を取っている。
下は二十六歳の安達から、最年長は四十二歳の立川さんまで、誰一人とっても侮れない。
だが、俺ももう二十九歳。今がピークだと感じる。S級入りを目指すならば、今日も勝つしかなかった。
そろそろウォーミングアップも十分だ。
そう思ったとき、同期の村田が俺の横に立ち、首をひねった。
「なんだ? どよめきが聞こえないか、知己島……」
「どよめき?」
俺は脚の回転をゆるめ、ゆっくりと車輪を止めた。バーをつかんで身体を支え、耳を澄ます。他の選手がローラーをまわす音しか聞こえなかった。
ペダルから足首を外しながら村田に言う。
「特にどうっていうことはないな。どんな感じだった?」
「どんな感じって……、このメディアドームでどよめきって言ったら、観客の歓声しかないだろ?」
「空耳だ」
俺は断定した。
観客の歓声などあるわけがない。
普通のナイター競輪とミッドナイト競輪の違いは、ただ時間帯だけじゃない。
経費削減のため、ミッドナイト競輪では一人の観客も入場させないのだ。投票券は電話とネット回線を通じてのみ発券され、レースの模様は放映によってだけ観戦できる。
観客のいない閑静としたドームのなか、俺たちは真夜中のしじまを貫いて戦う。
今もバンクではレースが行われているが、どよめきなど起こるはずはなかった。
俺は言った。
「レースに対する集中力が高まってるんだな。武者震いみたいなもんさ」
「そんなもんかねぇ……」
村田の呟きの半分は聞こえなかった。
ローラー室の中央あたりから、ガシャンと大きな金属音が響いて、彼の声を掻き消したのだった。
見ればローラーの立ち並ぶあいだの床に、金属製の格子が落ちていた。
天井の換気口から外れたらしいが……。
日焼けした肌の立川さんが、ドリンクを片手に様子を見に行く。
「こんなもの、自然に落ちるわけないだろう、おかしいな……」
立川さんは格子をつま先でつついた。それから換気口の真下に立って、上を見上げる。
そこへ、人間の上半身が落ちてきた。
腰から下はなく、脊椎と大腸の切れ端が揺れている。その血まみれの上半身は、信じ難いことに生きていた。
「ヴぁあああああぁーッ!」
半身は立川さんにしがみつき、獣のような唸り声をあげて盛り上がった肩に齧りつく。
俺は驚いて自転車に足をひっかけてしまって、尻餅をつくことになった。
「なんだ、コノヤロー!」
立川さんは怒声を張り、半身を引き剥がそうともがく。
村田と今井が駆け寄って、もみ合うようになったかと思うと、生ける上半身を床の上へ放りだすことに成功した。
その生皮を剥がされたような赤黒い頭部に、一番若手の安達が自転車を振り下ろす。
「コノヤロー! コノヤロー!」
安達は叫びながら、何度も自転車を打ちつけた。俺たち競輪選手は上半身の筋力だって相当なものだ。安達の自転車はあっという間に車輪が歪み、使い物にならなくなる。
生ける半身の頭が割れ、その動きとうめきが止まった。紫色に変色した脳漿がはみ出している。
安達はフレームの変形した自転車を投げ捨て、放心したように立ち尽くした。
俺も立ち上がり、恐る恐る近づいていく。
このローラー室にいた七人全員で、死体を取り囲み、見下ろす。鼻腔にまとわりつくような腐敗臭が、辺りを満たしていた。
荒い息をつきながら、立川さんが言う。
「怪我はないか、みんな?」
村田と今井が無事と答え、俺たちの目は立川さんに向けられた。
立川さんの体は黒い血糊でべったり濡れていたが、彼は気丈に言った。
「俺もプロテクターが無かったらまずかったな……怪我はない」
ここにいる七人のうち、俺も含めた半数は、レースのためにプロテクターを身に着ける。シャツの下にはポリカーボネートの鎧があったのだ。人間の噛み付きくらい防げる。だが、眼下に横たわるこの存在はなんなのか?
割れた頭から脳髄を溢れさせる、ボロ雑巾のように傷んだ人間の上半身。顔は腐敗と損傷が激しくて、年齢がわからない。汚れたワイシャツとネクタイを着けていることから、換気口に入って作業をするような者だとも思えなかった。
立川さんに次ぐ年長者、三十三歳の近藤さんが呟く。
「コイツは何なんだ……?」
俺は口をつぐんで一つの単語を飲み込んだ。
ゾンビ……。
それ以外に何がある?
俺の右に立っていた安達が、頭に手を当てて嘆息する。
「お、俺、やっぱり人を殺しちまったのか……いや、でも……」
俺は安達の肩をつかんで言った。
「しっかりしろ、安達! こんな状態で生きてる人間がいるか! こいつは……」
俺は断固として続けた。
「こいつはゾンビだ!」
「よせよ、知己島」
近藤さんが呆れ顔で言うのに、今井も続いた。
「ゾンビなんて理屈が通りませんよ、知己島さん……」
俺は二十七歳の今井に言い返す。
「理屈っていったか、今井。身体を真っ二つにされたうえで、こんなに腐り果てた人間が換気ダクトの中を動き回ってる理屈があるのか? こいつは昨日今日に死んだ奴でさえない」
立川さんと村田は、思案顔で黙っている。
安達と同期、同い年の黒丸が言った。
「どっちにしろ誰か呼んでこないと。死体があるんだから、警察にも連絡しなきゃ」
黒丸は踵を返して走っていく。
このローラー室を出れば、車両を整備する検車場だ。検車場は広く、敢闘門までつながっている。敢闘門、つまりバンクへの出入り口まで行けば、確実に連絡が取れる。
俺たち競輪選手はレースの前日から、このドームに隣接された宿舎に入らなければならない。携帯電話などの通信機器を持ち込むのは禁じられ、外部との連絡は手間がかかる。
もっとも、こんな状況に陥ることは前代未聞だろうが。
警察と聞いて青ざめた安達を励ます。
「安心しろ安達。お前は全員のためにやったんだ。今度は俺たちが守ってやる」
ゾンビには懐疑的な近藤さんも続く。
「そうだな。それは確かだ……」
その時、遠く低い悲鳴が聞こえた。
「黒丸!」
口々に叫んで駆け出そうとする俺たちを、立川さんが押しとどめて言う。
「待て! 俺が様子を見てくる。みんなで危険を冒すな!」
足音を立てないような小走りで、立川さんが両開きの扉を抜けて行った。俺たちも扉の近くに待機する。固唾を飲んで待つこと数秒。足音も高く、立川さんが扉から飛び込んできた。
「黒丸は手遅れだ! 来るぞ、動きが早い!」
俺たちは浮き足立った。
「武器になるものはないか!」
誰かの叫びに安達が応える。
「ピストしかねぇ!」
安達はひしゃげた自分の自転車の代わりに、黒丸の自転車を持ち上げた。
俺たちはそれぞれ自分の自転車を持ち上げ、大鎌のように構えて待ち受けた。
何が来るのか直感では理解しても、理性がやはり途惑わせる。
自分たちの滑稽さに力が抜けかけた時、扉を弾くようにしてそれが現れた。二体のゾンビが。
片方は首がちぎれかけてぶらぶらしている。もう一体は腹がぱっくりと口を開け、内臓が無くなっていた。手には大きなスパナを持っている。
どちらも白いシャツに水色のズボンを身に着けているし、顔に見覚えがあった。検車員だ。さっきまで生きて仕事をしていた人間が、傷だらけですでに腐りかけている。
言葉をかけたくなった逡巡を突かれた。
「ヴォオオオオオオオォッ!」
ゾンビが唸りをあげ、一番前に出ていた安達に向かってスパナを投げつけた。
意外な行動に面食らった安達が、ゾンビの突進を受けて押し倒された。
だが、安達は腕を突っ張ってゾンビの上体を押し上げる。
俺はそこをめがけて、なぎ払うように自転車を振るった。
ゾンビは安達から離れ、ローラー台の上に倒れこむ。
俺はさらに自転車を振るい下ろしたが、ローラー台の横にあるバーが邪魔な上に、腹筋のこそげ落ちたゾンビが起き上がろうとする動きは、まったく予測しにくかった。
とても頭を潰すほどの打撃は与えられない。
もう一体は立川さんと村田、今井が相手にしているが、そっちもうまくいってなかった。
なんとか自転車をふるって千切れかけた首を落とそうとしているようだが、四肢のそろった相手にふらふら揺れる自転車の前輪では分が悪い。
抜け目なく出入り口の扉に立っていた近藤さんが叫ぶ。
「ローラーを出るんだ! ここは袋で逃げ場がない!」
直後、近藤さんの背後から、皮膚のめくれた灰色の腕が巻きつけられた。その腕の持ち主が近藤さんの首筋に喰らいつく。
検車場に併設されている売店の女店員だった。
2012年5月11日金曜日
2012年5月2日水曜日
無計画リレー小説 第八話
【登場人物】
古屋勇太‥‥十九歳。小説家志望のフリーター。祖父の営む古書店でアルバイト中。
美園さおり‥‥十七歳。高校生。勇太の幼馴染で、美園屋青果店の一人娘。
古屋繁‥‥勇太の祖父。古書店を営んでいる。
古屋一雄‥‥勇太の父。
ジェイムズ・J・ジェイムズ‥‥伝説の作家。
唯一髪‥‥モヒカン。
「勇太……!勇太……!気がついているかっ!? はあはあ……。」
連呼される自分の名前。その声の息づかいからは、何かとてつもないものと戦っているような情景が伺える。目を覚まさなければならない、そう確信をするけれども自分の瞼は閉じたままだった。
・・・
「ジェイムスよ!勇太を火星に展開したな!……勇太は……わが子は、一ヶ月間も彷徨っていたんだぞ!」
微かに聞こえる一雄の声。その声は恐怖か哀しみか定かではないが、震えているようだった。
「一雄、お前の葛藤もわかる。だが、ここは耐えるのじゃ」
じいちゃんの声も聞こえてくる。ふたりは自分の前に立ちふさがり、守ってくれているかのようだった。
「いでよ、唯一髪!姿を表わしたまえ!」
一雄は呪文のように叫び、念ずると両手を天へと掲げる。
「一雄!ならぬぞ。ふれてはならぬ。唯一髪、所謂このセカイをつくりし者へは……」
「しかし、親父!平穏な日常に執筆を催促するということは、過剰なストレスを生み出す!実際、勇太は一ヶ月も悩まされ続けた!」
「それは違うぞ、一雄。あのお方は救うてくれてるのじゃ。新たな優しきストレスのようなものは、日常を変えることのできる贈与性に等しいのじゃ」
「……し、しかし親父!参加ルールは書き手の意思に委ねるもの!しかも、今回はハングで名指しされっ……」
その時ふたりの会話を遮る巨大な拳が、一雄の鳩尾に食い込んだ。
「ぬわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
(つづく)
その 向こう。
待ち合わせた時から ずっと 優菜は機嫌が悪かった。
「何だよ、折角久しぶりに会えたのに」
就職してからは遠距離になった。このGWに会えるのを楽しみにしてたのに 何だか酷い。
ずっと夢だった小学校の先生になれたっていうのに
電話でもメールでも このごろ愚痴ばかり聞かされる。
最近は 何をどう返事したらいいのかも解らない。
いい加減な返事をすると怒るし こうだと思うことを言ったら
あなたは今のこどもたちについて何にも解ってない、と責められる。
黙って聞いていたら 何か言ってほしいと 泣かれてしまう。
疲れてるのは解る。
会ってぎゅっと抱きしめたらきっと・・・なんて想像も 今思うと馬鹿みたいだ。
「いじめられてる子がいるの」
靴に泥を入れられたり 物を隠されたり 鉛筆折られたり。
─ああ、そういうの 昔っからあるよな。
ついそんな返事をしたら あきらかに優菜の目つきが怖くなった。
「相談されてるの?」
「いじめた側が認めないとか?」
「親が出てきたとか?」
優菜はテーブルのナプキンを細かく細かくたたみながら
長い間 返事もしない。
「全然 違う」
ぽそりと言う。抑揚のない声。
「じゃあ 何?」
「本人よ、そのいじめられてる子が…」
何とも思わない、別に気にしない。
しいて言えば 今度入学する妹に知られたら嫌だ とか。
別に死んでもいいとか言うの。表情変えないで。
聞いてないよ、聞くわけないじゃない。
死にたいと思う?なんて。
私 これでも ちゃんと先生やってるよ。
子供の心傷つけないよう 言葉選んで。 みんなどの子も平等に大事にして。
死にたいと思う?なんて 聞くわけないじゃない。
誰がそんなこと聞くのよ、誰がそんな風に・・・・。
優菜が勢いづいて喋りつづける。手が細かく震えている。
顔から血の気が引いて怖いほど青ざめている。
その子が言ったの。急に私の目を見て。それまでどこ見てるか解らない目をしてたのに。
『死にたいと思うか…って?』
そして それに返事をした。自分で。
誰が聞いたの?そんな恐ろしいことば。
その子の空耳なの?その子の中の誰かなの?
ねぇ 誰がそんなこと・・・・。
あたしなの?あたしの中の誰かなの?
こどもの頃の あたしなの?
熱に浮かされてうわごとでも言っているかのような優菜の様子に
テーブルひとつ挟んだだけのはずの 僕と優菜の距離が
どんどん遠くなる。
---------------------------------------------------------
お久しぶりです。
初投稿で空気読んでないのではないか ドキドキのすずはらです。
お気づきのように 住谷さんの前出の「あなたのとなりの物語3話目」から
派生した物語(?)です。
住谷さんの投げるのは直球のように見える実はもの凄い球で
それを拾って あさっての方向に投げさせてもらいました。
こんな風にして最初に書いたのは2005年のことなので もう7年も前になります。
歳とるわけだ。
書くことをOKしてくれた住谷さん、ここに参加させてくれた皆さんに感謝です。
2012年5月1日火曜日
無計画リレー小説 第七話
【登場人物】
古屋勇太‥‥十九歳。小説家志望のフリーター。祖父の営む古書店でアルバイト中。
美園さおり‥‥十七歳。高校生。勇太の幼馴染で、美園屋青果店の一人娘。
古屋繁‥‥勇太の祖父。古書店を営んでいる。
古屋一雄‥‥勇太の父。
ジェイムズ・J・ジェイムズ‥‥伝説の作家。
気がつくとそこは火星だった。
見渡す限り荒涼とした大地が続いている。岩と砂で埋め尽くされた赤茶けた大地。その風景は、子どもの頃読んだ学習雑誌に載っていた火星のイラストと良く似ていた。
「知ってる。この光景……」
勇太は、呟いてから気がついた。いつの間に火星に来たんだ?さっきまで塩焼きさんまにつかまっていたはずなのに。
いやまて。
火星だけじゃない。さおりはどこからあらわれた? じいちゃんは、どこからあらわれた?赤剥けの怪物も、ジェイムズ・J・ジェイムズも、唐突にあらわれ、唐突に消えて行った。まるで夢みたいに。
「夢にしては、あちこち痛いけど……」
打ち身や擦り傷、それに所々火傷をしているようだ。応急手当くらいはしたいところだが勇太は手ぶらだった。
「救急箱でもあればな」
「はい、救急箱」
見るとさおりがリュックから救急箱を取り出していた。
「いろいろ……持っているんだなあ」
「そうね」
さおりはもの言いたげにしている。
「何だか、わけがわかんないよな、ここ」
救急箱の中にはいまどきめずらしく赤チンが入っていた。正しい手当方法などわからないので、とりあえず赤チンをべたべたと塗る。
「イチチ……なんだって、赤チンと包帯しか入ってないんだろ」
「勇太、昔っからケガとかしてもほったらかしだったもんね。消毒とかちゃんとしたことないでしょう?」
「そんなことないよ、小学校の時には保健室の常連だったんだぜ」
「変な自慢」
「消毒されるのが一番苦手だったな、ひどく沁みてさ……ほら、なんだっけ?エタノールだったか」
「エタノールなら、ホラ入っているでしょ?」
さおりが救急箱の隅を指差す。
「あ、ああホントだ。それにピンセットにコットン。思い出すなあ、こいつで傷口を消毒してもらったんだ」
よくわからないなりに応急手当を済ませると、少しホッとした。
「見慣れたものが多いと落ち着くわね」
「そうだなあ。ははっ、火星の風景は見慣れちゃいないけど」
手近な岩に腰掛ける。
空を見上げると真っ黒な空が広がっていた。
「大気が薄いから、昼でも空は黒いんだ」
「大気が薄いのにどうして私たちは普通に息をしているのかしら」
さおりの疑問はもっともだと勇太は思った。
「ふうむ」
どうしてだろう。例えば……ここは本当の火星じゃなくて撮影用のセットであるとか。それにしては壮大すぎる。遠くに見えるあの山々はとても書き割りには見えない。何か特殊な設備で大気が維持されている?どんな設備だよ、そんな都合のいい話があるか。テキオー灯のような便利な道具があれば……そんな道具を使った覚えはない。上手い説明が思い浮かばないな、もしやあれか……と勇太が考えを巡らせていると。
「夢、とか」
「夢かもって僕も考えたけど。あちこち痛いしさ、夢とはちょっと思えなかったんだ」
「でも、まるで夢みたいだと思わない?行き当たりばったりで無計画で、怖かったり普段出来ない事をやっちゃったり」
「うん、確かにそうだね」
「夢じゃないとしても、夢みたいな、何か。無計画で無秩序な何か」
何なんだろうね、とさおりは微笑んだ。
何なんだろうなあと、勇太も呟く。
「なんだかわからないけど、ともあれ、このままずっとここに居るって訳には行かないよなあ」
「でも、どちらに向っても砂漠が続くばかりだよ?ここなら、岩陰があって過ごしやすいけど、移動した先がどうなっているかはわからない……ふふふ、わからない事だらけね」
「しょうがないだろ、この世界自体が『無計画な夢みたいな何か』なのかもしれないんだから」
ひらめいた。
「夢みたいな何かの中で、夢を見たらどうなるんだろう」
「あ、それおもしろそう。どうなるだろうね?ちょっと待って、ちょうど寝袋がここに……」
さおりは鞄から寝袋をふたつ取り出した。なんて都合のいい鞄だろう。寝袋でもあればなとは思ったけどまさか本当にあるとは。「夢みたいな何か」の世界だからだろうか。
「ちょうどほら、空も満天の星空。夜空みたいなものだよね」
何となくやるべき事が見えた気がして、ふたりでてきぱきと寝袋を広げてもぐり込んだ。さおりと二人で眠るなんて、いつ以来だろう。ちらりと横目でさおりを見ると、目が合った。あわてて顔を空の方にそらして、星を眺める。
今は夜なんだ、と自分に言い聞かせてみても、簡単には眠気はやってこなかった。落ち着かずにもそもそとしていると、さおりが話しかけてきた。
「勇太、小説もう書かないの?」
「辞めた」
「そう……」
ひとしきり沈黙が続く。少しずつ眠気がわいてきた頃、さおりがまた呟いた。
「勇太はもう書かないって言ったけど。
私は勇太のかくおはなし、大好きなんだ。だって勇太の書くおはなしはいつだって幸せに終わる話だもの」
そんなの、だってあれは、たいした話じゃない、あんなのは。
「おとぎばなしだろ、めでたしめでたしで終わるのが当たり前なんだよ。つまらない」
そんな話しか。そんな程度の。
「予定調和の話になんの魅力があるってんだ」
「そう……?」
「どこにでもあるありふれたおはなしをいくら書いたって、どこにも残らない。あっという間に忘れられておしまいだ」
自分よりも長く生きる物語が書きたかった。自分が死んだあとも、読み継がれ、語り継がれるような。そう思って試行錯誤を繰り返して、でも、それは自分の期待するような物語にはならなかった。
「才能がないんだ。目指してもしかたがない」
「そう……それが勇太がゴールを消しちゃった理由なんだね。目的が見えなくなったから計画を無にしちゃったんだ」
書かない言い訳をしているような気分になり、勇太はすこし恥ずかしく思った。言い訳をするつもりじゃなかった。
「わたしね」
眠気に負けてきたのだろうか、だんだんさおりの声が遠くなってきたような気がする。
「物語を書くのって、無計画の中に計画を入れて行くようなものだと思うの」
その声にはどことなくエコーがかかっている気がする。
「行く先のない旅に、ゴールを設定するようなものだと思うの」
さおりはこんな声だったろうか。もやもやと思考がかすんでくる。
「勇太がこの自分の物語を書こうとしない限り、この世界は無計画ままだと思うの」
最後のさおりの呟きは、もう勇太には聞こえなかった。
眠りの闇の中にすうっと落ちていく落下感が勇太を包んでいた。
古屋勇太‥‥十九歳。小説家志望のフリーター。祖父の営む古書店でアルバイト中。
美園さおり‥‥十七歳。高校生。勇太の幼馴染で、美園屋青果店の一人娘。
古屋繁‥‥勇太の祖父。古書店を営んでいる。
古屋一雄‥‥勇太の父。
ジェイムズ・J・ジェイムズ‥‥伝説の作家。
気がつくとそこは火星だった。
見渡す限り荒涼とした大地が続いている。岩と砂で埋め尽くされた赤茶けた大地。その風景は、子どもの頃読んだ学習雑誌に載っていた火星のイラストと良く似ていた。
「知ってる。この光景……」
勇太は、呟いてから気がついた。いつの間に火星に来たんだ?さっきまで塩焼きさんまにつかまっていたはずなのに。
いやまて。
火星だけじゃない。さおりはどこからあらわれた? じいちゃんは、どこからあらわれた?赤剥けの怪物も、ジェイムズ・J・ジェイムズも、唐突にあらわれ、唐突に消えて行った。まるで夢みたいに。
「夢にしては、あちこち痛いけど……」
打ち身や擦り傷、それに所々火傷をしているようだ。応急手当くらいはしたいところだが勇太は手ぶらだった。
「救急箱でもあればな」
「はい、救急箱」
見るとさおりがリュックから救急箱を取り出していた。
「いろいろ……持っているんだなあ」
「そうね」
さおりはもの言いたげにしている。
「何だか、わけがわかんないよな、ここ」
救急箱の中にはいまどきめずらしく赤チンが入っていた。正しい手当方法などわからないので、とりあえず赤チンをべたべたと塗る。
「イチチ……なんだって、赤チンと包帯しか入ってないんだろ」
「勇太、昔っからケガとかしてもほったらかしだったもんね。消毒とかちゃんとしたことないでしょう?」
「そんなことないよ、小学校の時には保健室の常連だったんだぜ」
「変な自慢」
「消毒されるのが一番苦手だったな、ひどく沁みてさ……ほら、なんだっけ?エタノールだったか」
「エタノールなら、ホラ入っているでしょ?」
さおりが救急箱の隅を指差す。
「あ、ああホントだ。それにピンセットにコットン。思い出すなあ、こいつで傷口を消毒してもらったんだ」
よくわからないなりに応急手当を済ませると、少しホッとした。
「見慣れたものが多いと落ち着くわね」
「そうだなあ。ははっ、火星の風景は見慣れちゃいないけど」
手近な岩に腰掛ける。
空を見上げると真っ黒な空が広がっていた。
「大気が薄いから、昼でも空は黒いんだ」
「大気が薄いのにどうして私たちは普通に息をしているのかしら」
さおりの疑問はもっともだと勇太は思った。
「ふうむ」
どうしてだろう。例えば……ここは本当の火星じゃなくて撮影用のセットであるとか。それにしては壮大すぎる。遠くに見えるあの山々はとても書き割りには見えない。何か特殊な設備で大気が維持されている?どんな設備だよ、そんな都合のいい話があるか。テキオー灯のような便利な道具があれば……そんな道具を使った覚えはない。上手い説明が思い浮かばないな、もしやあれか……と勇太が考えを巡らせていると。
「夢、とか」
「夢かもって僕も考えたけど。あちこち痛いしさ、夢とはちょっと思えなかったんだ」
「でも、まるで夢みたいだと思わない?行き当たりばったりで無計画で、怖かったり普段出来ない事をやっちゃったり」
「うん、確かにそうだね」
「夢じゃないとしても、夢みたいな、何か。無計画で無秩序な何か」
何なんだろうね、とさおりは微笑んだ。
何なんだろうなあと、勇太も呟く。
「なんだかわからないけど、ともあれ、このままずっとここに居るって訳には行かないよなあ」
「でも、どちらに向っても砂漠が続くばかりだよ?ここなら、岩陰があって過ごしやすいけど、移動した先がどうなっているかはわからない……ふふふ、わからない事だらけね」
「しょうがないだろ、この世界自体が『無計画な夢みたいな何か』なのかもしれないんだから」
ひらめいた。
「夢みたいな何かの中で、夢を見たらどうなるんだろう」
「あ、それおもしろそう。どうなるだろうね?ちょっと待って、ちょうど寝袋がここに……」
さおりは鞄から寝袋をふたつ取り出した。なんて都合のいい鞄だろう。寝袋でもあればなとは思ったけどまさか本当にあるとは。「夢みたいな何か」の世界だからだろうか。
「ちょうどほら、空も満天の星空。夜空みたいなものだよね」
何となくやるべき事が見えた気がして、ふたりでてきぱきと寝袋を広げてもぐり込んだ。さおりと二人で眠るなんて、いつ以来だろう。ちらりと横目でさおりを見ると、目が合った。あわてて顔を空の方にそらして、星を眺める。
今は夜なんだ、と自分に言い聞かせてみても、簡単には眠気はやってこなかった。落ち着かずにもそもそとしていると、さおりが話しかけてきた。
「勇太、小説もう書かないの?」
「辞めた」
「そう……」
ひとしきり沈黙が続く。少しずつ眠気がわいてきた頃、さおりがまた呟いた。
「勇太はもう書かないって言ったけど。
私は勇太のかくおはなし、大好きなんだ。だって勇太の書くおはなしはいつだって幸せに終わる話だもの」
そんなの、だってあれは、たいした話じゃない、あんなのは。
「おとぎばなしだろ、めでたしめでたしで終わるのが当たり前なんだよ。つまらない」
そんな話しか。そんな程度の。
「予定調和の話になんの魅力があるってんだ」
「そう……?」
「どこにでもあるありふれたおはなしをいくら書いたって、どこにも残らない。あっという間に忘れられておしまいだ」
自分よりも長く生きる物語が書きたかった。自分が死んだあとも、読み継がれ、語り継がれるような。そう思って試行錯誤を繰り返して、でも、それは自分の期待するような物語にはならなかった。
「才能がないんだ。目指してもしかたがない」
「そう……それが勇太がゴールを消しちゃった理由なんだね。目的が見えなくなったから計画を無にしちゃったんだ」
書かない言い訳をしているような気分になり、勇太はすこし恥ずかしく思った。言い訳をするつもりじゃなかった。
「わたしね」
眠気に負けてきたのだろうか、だんだんさおりの声が遠くなってきたような気がする。
「物語を書くのって、無計画の中に計画を入れて行くようなものだと思うの」
その声にはどことなくエコーがかかっている気がする。
「行く先のない旅に、ゴールを設定するようなものだと思うの」
さおりはこんな声だったろうか。もやもやと思考がかすんでくる。
「勇太がこの自分の物語を書こうとしない限り、この世界は無計画ままだと思うの」
最後のさおりの呟きは、もう勇太には聞こえなかった。
眠りの闇の中にすうっと落ちていく落下感が勇太を包んでいた。
(つづく)
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