2013年4月12日金曜日

排他的聖域の宿命とクリミナルタイプジェネレーション

 一、サンクチュアリ

(1)

 風か強くて思わず目を閉じる。自転車がバランスを崩しながら私の横を通りすぎる。
 公園を右手に見ながら坂道をのぼる。緩やかな坂道だ。公園のさくらはつぼみを大きくして、今か今かとその開花のときを待っているようだった。
 太陽は天高く輝き、草木は音をたてて風に揺れる。私はひとりきり歩く。ひとりきりだ。私はこの街でひとりきりだった。友人はもちろん、知り合いもいない。他人と話すのは買い物のときくらいで、それ以外の時間はこうやって散歩をしたり、本を読んだりして過ごしている。
 ひとりは気楽だし、何よりも自由だ。生活の心配は多少あるけれど、働いていた頃に貯めた預金がけっこうあったし、退職金もそれなりにもらえたから、概算して一年程度ならなんとかなりそうだった。日々の出費を切りつめれば、もう少し長い期間仕事に就かなくても大丈夫だろう。
 そもそも、散歩と読書くらいしか趣味がないのだ。ひとりでお酒を飲むことは好きだけれど、高価なシャンパンとかワインとか身の丈に合わぬものをゴクゴク飲むわけじゃない。友達も知り合いも恋人もいないから、交際費は一切かからない。どう間違っても興味を持てない洋服や宝飾品にお金をかけることもない。だから、お金の使い道なんてほとんど限定されている。
 私は公園に立ち寄る。いつもならどこに行くとしても小一時間ほどベンチに座って本を読むのだけれど、今日はやめることにした。ただでさえ手入れの行き届いていない長いだけの髪が巻き上げられてボサボサになってしまうほどの強風なのだ。とても本を読める環境じゃない。
 私は公園の真ん中に立って三百六十度あたりを見渡す。木々が震え、土埃が舞っている。ブランコは人の力を借りず揺れ、フェンスはガタガタときしんでいた。
 春はすぐそこまできている。私はすでに春を感じている。四季の移り変わりをしみじみと感じるようになってきたのは、きっと歳を重ねたせいだろうと思う。あるいは、仕事や人間関係という煩わしいものものから解放されたせいもあるだろう。私は首を縮め、強風から身を隠すようにスプリングコートの襟をすぼめた。
 私は公園を出て、坂道に戻る。ここをのぼり終えると路面電車の停留所がある。車が行き交う大通りだ。排気ガスと焦げたゴムの臭いがする国道にこの坂道は突き当たる。
 その大通りを私は右に曲がる。トラックが3台、列をなして大きなタイヤをアスファルトにこすりつけ、よどんだ空気に轟音を響かせる。歩道はあるけれど、歩行者はあまりいない。JRの駅からだいぶ離れているし、この道自体に魅力が乏しいから仕方がない。もう少し先まで行けば大きな商業施設があって、そこには溢れんばかりの人がひしめいていることだろう。
 でも、私はそこに行かない。特に用はないし、人ごみはどうしても好きになれない。今日買いに行くつもりの下着はその商業施設の中ではなく、繁華街のはずれにある小さな店で売っている。安価でみすぼらしい下着。積極的に見せる誰かがいるわけじゃないから、私にはこれで十分だ。
 黒のミュールはとても履き心地が悪かった。雨の降った翌日に舗装されていない道を歩くときの感覚に似ている。何年も前に他人からもらったものだから文句の言いようもないのだけれど、足にフィットしていないし、かかとも高すぎる。今日に限ってなぜ履き慣れたスニーカーにしなかったんだろう、と私は後悔した。気まぐれはたいてい良い結果をもたらさない。
 私は一階にコンビニエンスストアが入っている高層マンションの横を抜け、大きな郵便局がある道へと足を向ける。左手には運動場があって、野球をしている少年たちの叫び声が聞こえる。同じ敷地にあるテニスコートは無人だ。こんな風の強い日にすすんでテニスをしようとする人はいないのだ。ごく自然に考えて。
 郵便局がある道を真っ直ぐ進むと真新しい図書館がある。蔵書がどのくらいあるのかよく知らないけれど、私の住むマンションの近くにある旧時代的な図書館よりもずっと多いはずだ。
 私は図書館の手前にある十字路を右に入る。片側二車線ある広い道と軽自動車が一台ギリギリ通れるくらい狭い道の交差した場所だ。果たしてこれを十字路と呼ぶべきかどうか、私には合理的な答えもそれに代わる別の答えも導き出せない。もし他人にこの交差点について説明するとしたら、私は十字路と呼ばないかもしれない。今の私にはいらぬ心配だけれど。
 道の左側、三件目が私の目的地だ。高度経済成長期の初めに建てられた木造住宅のような店がそこにはある。四階建ての雑居ビルと古いアパートに挟まれ、窮屈そうにしているその店はとても女性用の下着を販売しているように見えない。まず店に見えないと言った方がより正確かもしれない。
 私は木製の引き戸を開けて店に入る。中には所狭しとブラジャーやショーツが陳列されている。「いらっしゃい」としゃがれた声をかけるのは、いつもいる七十代か八十代か、とにかく幼いころ絵本で観た魔法使いみたいにシワだらけの顔をした老婆だ。
「しばらくだね」
 彼女は続けて言う。私は会釈をして、「どうも」と返事にならない言葉を返した。
 店の一番奥に一番安い品物がある。手前にあるのはワコールやトリンプなどの有名メーカーのものだ。機能性やデザインを考慮しても、私には必要のない代物でしかない。私は隠すべきところを隠すことができればそれでいい。極端にいえばそれがイチジクの葉だっていいのだ。
 私は棚に無造作に置かれたベージュの上下を二セット、黒のショーツを一枚鷲掴みにして、早足で老婆のいるレジに向かう。レジで待っていた老婆は私からそれらを受け取り、暗算で代金の額をはじき出して、私に伝えた。
「ありがとう。またおいで」
 私が彼女に言われた通りのお金を支払うと、老婆は老婆の愛嬌をたずさえた笑顔を見せる。私は下着の入った茶色の袋を抱えて、逃げるように引き戸を開けて風の中に戻った。
「はあ」
 私は大きく息を吐いた。ため息ではなく、深呼吸でもない。ただ、単純に、一生命体の無意味な行為として息を吐いた。この店は現在の私と過去の私との、唯一の接点だ。利用した回数はたかが知れているけれど、今住んでいる街に越してくる前から私はここで下着を買っていた。
 来た道を戻ろうとしたとき、十代半ばくらいの女の子とすれ違った。何の気なしに振り返ると、その少女はさっきまで私がいた店にゆっくりと入っていくところだった。
 この店を利用している他人を見たのは初めてだ。もっとも店として営業している以上、客が私ひとりのはずがない。今まで偶然に誰とも会わなかっただけだろう。考えてみれば私だってそう頻繁にこの店に通っているわけじゃない。いいところ月に一度来るか来ないかだ。その程度でいかにも常連のような顔をしているのもおかしな話だ、と思う。
 狭い道に風が通り抜ける。私は胸に茶色の袋を抱き締める。髪がたなびき、地味な色のスカートがふわりとめくれ上がりそうになる。風が強いとわかっているのに今日に限ってなぜスカートなんてはいてきたんだろう、と私は後悔した。気まぐれはたいてい良い結果をもたらさないのだ。

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