2013年2月10日日曜日

七百円ランチ


太古の昔、人間にとって飢える事とは即ち死であった。
 『食わねば死ぬ』という絶対的摂理の前に数多の生物たちは生存競争を勝ち残ろうと草を食い、肉を食い、とにかくひたすらに、破茶目茶に食い続けた。野生の只中で飢えに喘ぐ事は死の恐怖そのものだっただろう。
 四十六億年という記憶を持つ地球において、人類が頭角を現したのはほんの数万年前の事だ。この生き物は道具を使う事を覚え、肉体を獣性から遠ざけつつも大脳を発達させ、その大脳が捻り出す知恵とともに編み出した道具を進化させる事によって文明を繁栄させて来た。会得した農耕と畜産を人類がかつて死と隣り合わせにしてきた空腹を満たす行為のためミックスさせ、今も燦然と輝くある文化に目覚めたのはおよそ一万年前の事だ。

 ランチタイムを少し過ぎた昼下がり、外回りを一件片付けた後で私は遅い昼食を摂る事にした。今回の営業先は住宅街に程近い国道のすぐ脇にあり、私は舗道をぶらぶらと歩きながら獣性なき空腹を満たす先を求め探していた。
 そんな最中で『原屋』という小さな店舗を見つけたのは私にとって思わぬ僥倖であった。
 いかにも良い匂いを漂わせるこの店。構えは明らかに小さい。脇に聳え立つ高層マンションと、今や目にする事も少なくなった写真館の間でその店はいかにもきゅうきゅうとしている風に見える。
 だが私の第六感がここは『当たり』であると告げていた。こんな感覚はごく稀だけに、私はいつも自分の直感を疑わない事にしている。『原屋』か。ありきたりというか、何ら捻った所がないというか、パっとしないネーミングだ。そう思っていた所で私が自分の誤りに気付いた。
 『原屋』の原の字の右上に半濁音の○が付いているのだ。つまりこの店は恐らく『原°屋』と書いて『パラヤ』と読ませるのだろう。その意味する所は不明だが、ちょっぴり小癪である。
 理由の分からない不愉快な気持ちになったが、私は自分を直感にそむく事はしない。オーク色の扉を開けると店内へと体を滑り込ませた。この時点で私はこの店が何を扱っている店であるか考えてもいない。
「あーい、いらっしゃい」
 いかにも馴れた感じの声が飛んできた。厨房の中には店主と思われる四十代くらいの女性とその娘らしき少女が忙しく働いている。
 まず思った事は、外観以上に店舗が狭いという事だ。
 テーブルは奥に一つだけ、あとは厨房の前のカウンターに三つ椅子を置いてあるのみである。しかもカウンターはそのまま通路に面していて、恐ろしく通行を圧迫する。だが、店の雰囲気は明るく内装のセンスも悪くない。奥のテーブル席には遅いランチをとっている主婦らしいグループが占拠している。
 私は仕方なしにカウンターの一番奥の椅子に腰掛ける。
「……どうぞ」
 非常に控えめな声でメニュー表と水を差し出したのは店主の娘と思われる少女である。見たところ高校生ほどだが、高校生なら今の時間帯は学校だから、年齢はもっと上なのかもしれない。髪は見事に茶色に染めているが、それによって素朴さをいささかも減殺されない佇まいはふとした微笑ましさを誘う。
 女の子の事は素早く放念し、私はメニューへと視線を注ぐ。
 なるほど、メニューを眺めて納得した。この店は定食屋なのだ。しかもお値段はどれもリーズナブルだ。メニューは五百円のランチがメインだが、ライスと単品お惣菜の組み合わせも可能なようだ。そうなると、どこまでも安く抑えたい者はライスに単品惣菜だけで最低二百円代にまで出費を下げられる。なかなか良いシステムじゃないか。
 惣菜はとんかつに唐揚げ、コロッケにエビフライそしてサラダ類など王道を一通りそろえてある。そして最後に記されたカレーライスという力強い文字列。この山の如き不動の安定感こそが定食屋の醍醐味だろう。
 ふと気付くと私はめくるめく定食天国の虜となっていた。カレーライスに単品惣菜のエビや唐揚げを乗っけるのも良し、しかし五百円ランチへの好奇心も断ちがたい。七百円ランチは更に各上の味が楽しめるのだろうか……。しかし何時までもメニュー天国に恋々としているべきではない。私の空腹はまさに風雲急を告げているのだ。
「あの、メニューにお勧めとかありますか?」
 何か救いはないかと思い聞いてみたが、返って来たのは店主のキョトンとした顔だった。
「うーん、お勧めねえ。ねえ、サッちゃんお勧めとかある?」
 店主は半笑いを浮かべて娘に尋ねると、茶髪の娘は困ったような顔で「さあ……」と首を傾げた。キョトン顔だけに収まらず娘にまで話を振って私に恥をかかせるとは。少しヤケになった私は勢いで七百円ランチを注文した。
「はい七百円ランチ、おかずは何にします?」
 ……おかず? 予期しなかった問いに一瞬うろたえたが、メニュー表を確認すると何てことはない、七百円ランチは単品のお惣菜の中からお好みで二品を選べるのだ。なるほど、おかず一品で五百円ランチ、おかず二品で七百円ランチか。非常に分かりやすい。
「じゃあ、エビフライと唐揚げで」
 先ほど思いを馳せた惣菜乗っけカレーライスの想像図が勝手に浮かび上がり私の口を突いて出た。さらばカレー、ようこそおかず達。
「ランチエビカラね」
 店で使う略称らしきものを復唱すると、再び店主はあわただしく厨房を動き回り始めた。
 ――さてメニュー天国をついに追われてしまったが、ひとまずはこの空腹を楽しむとしよう。
 それにしても厨房の二人は本当によく動く、しかもコンビネーションが抜群にいい。調理係と盛り付け役の息がピッタリと合っているのだ。オープンキッチンが赤面して尻でも向けそうな小さな厨房でさり気なく繰り返される見事な連携プレイ。新鮮な体験だった。この母娘、やはり普段から仲が良いのだろうか。そんなどうでもいい事まで考えてしまう。
 私が料理を待っている間に奥のテーブルに鎮座していた主婦軍団が食事を終えて席を立った。レジで清算すると店主と娘に向かって口々に「またね」「ごちそうさま」などと気安く言い残し店を出てゆく。店主の受け答えからしてこの店の常連だったようだ。
「……どぞ」
 待ち時間は十分ほどだろうか、ようやく私の前に料理がそっと並べられた。またしても娘の声は控えめだが、この子はいつもこんな調子なのか。
 まあいい。……さて待望の七百円ランチはライスが低く盛られた皿に各種おかずが入った三つの器、そしてメインの惣菜にサラダを添えた大皿の五皿で構成されている。七百円という値と比較するとかなり立派なビジュアルだ。
 まず私の目を引いたのはなんと言っても副菜の多さだ。しかも、副菜のどれもがしっかりとした一品料理なのだ。私は早速、厚揚げの煮付けへと箸を伸ばした。
 たぷたぷに煮汁を含んだ厚揚げはジューシーで、甘い。素朴といえば素朴だが、それだけに期待を裏切らない懐かしい味だ。
 次はポテトサラダ。私は完全にマッシュされつくされたポテサラよりも芋の形の残ったポテサラが好物だが、このポテトはしっかりとマッシュされていて粒など殆ど残っていない。私は一瞬失望しかけたが、このポテトには秘密があった。歯ごたえが違うのだ。
 ……大きめに砕いたクルミが仕込まれてある。なめらかなポテトと対照的に、ぽりぽりとしたクルミの食感が面白い。
 ううん、と思わず私は唸った。すごいぞ、この店は。この店を選んだ自分の第六感が誇らしい。
 もう一品の副菜はごぼうの金平。辛さを抑え、やや酸味を効かせた味はまるでカレーライスにおけるらっきょうのようにランチ全体に対し機能している。どれも旨い。こんな小さく平凡な店で、こんなすばらしい料理が出てくるとは誰も予想はしないだろう。店主はおそらく余程の料理愛好家、いや、もしかすると昔はもっと大きな店で働いていたのではないか。そんな事まで勘ぐりたくなってくる。
 さて私の箸はとうとう双璧と呼べる二つの惣菜のうち、エビフライへと伸ばされていた。副菜があまりに旨く、すでにライスの半分が胃の中へ消えているが食欲の火はまだ燃え滾っている。
 三本のエビフライは小ぶりだが衣がきめ細かく、上にかけられたタルタルソースは自作のように見える。香りが良いのはタルタルに入っているピクルスのものだろうか。早速口内に運ぶとピリっとした刺激が舌を刺した。待て! これは、ただのタルタルソースじゃない!
 ――このソースは刻んだ茹で卵と酢と塩、そしてピクルス、たったそれだけで構成された、マヨネーズを一切使用していないソースなのだ。このシンプルなソースが油っこい筈のエビフライをなんともさわやかに食わせるのだ。そしてあたかもサラダがもう一品増えたかのようなお得感。ちょっとした感動におそわれ、思わず娘さんにサムズアップしてしまった。反応は予想できるので敢えて確認しない。
 最後に残された唐揚げはおおトリを飾るに相応しい味だった。色はほどよい狐色、衣は硬めで、パリパリというよりもカリカリに近い食感だが、肉に柔らかさがあって食べた者に意外性を与える仕掛けになっているようだ。味付けは基本に忠実な醤油系だが、さらに一点だけ味わうものにサプライズを用意してある。衣の下の身にマスタードを絡めてあるのだ。マスタードの後を引かない辛さが食欲を増進させ、私はライスを綺麗に平らげてしまった。
 付け合せのサラダにはヨーグルトにリンゴの果肉が絡めてある。私はふだんサラダに果物など言語道断、据えて八つに切り刻んでやりたい程に憎悪を燃やすタイプだ。しかしこのサラダは違う。それぞれのキャスティングに必然性があるのだ。ふと私は物語を思い浮かべた。ヨーグルトソースという甘酸っぱいストーリーを潤滑に運んでゆくために必要なキャスト。レタス、大根の細切り、かいわれ、ごぼう、そしてリンゴ。ヨーグルトソースという脚本を最後に締めるために必要な助演がリンゴなのだ。私は心のなかでアカデミー助演女優賞をリンゴに贈った、仰々しいハグとともに。そして食べた。美味い!
 
 ――至福の一時とはまさしく刹那のうちの事に過ぎない、しかしその記憶は私の脳に残り続ける。
 私はごちそうさまと言うと七百円ちょうどをカウンターに置いた。
「ありがとうございます」
 店主は一貫して慣れた調子だった。娘の方と言えば軽くお辞儀するだけ。ふと夢が覚めた心地になった。
 私は特別な客ではない。どこにでもいる、何色でもない、ただの腹を減らした人間に過ぎない。幻想の終わったような思いが湧いてきたが何も悲しむ事はない、腹が減ればまた食べに来ればいいのだから。椅子から腰を上げて狭すぎる通路へ出る。そこでふと先ほどの疑念がぽっかりと浮上した。
「そういえば、お店の名前って『パラヤ』って読むんですか?」
 口に出してそう訪ねてみたが――あれ? 反応は、まさかのキョトン顔。慌てて私は自分のフォローに入る。
「あの、『原』の横に小さい『○』があったじゃないですか。それで『パラヤ』って読むのかな、って」
 なぜ私がこうも見苦しい弁解をせねばならないのだ。
「……ああ。……ああ、そうね。そうも読めるかも」
 店主の反応の弱さにガラガラと私の何かが崩れそうになる。胸中で泣きそうになりながら私は何と呼ぶんですかと尋ねた。
「ハラヤです」
 そんままかよ。何のひねりもなしか。最後になって大きな落とし穴があったものだ。じゃああの『○』は何だったんだ? 私は白昼夢でも見たのだろうか。だが白昼夢にしてはあまりにも下らないじゃないか。
「この子が結婚してマルヤマになったんで、○書いたのよ」
 それだけ言うと店主は皿の片付けに入った。やっぱり下らない。しかも結婚だって? あの子そんな歳だったの? そう思って娘さんを見返そうとしたが、やめておいた。それは次の機会にとっておくのも良い。軽く会釈して私はオーク色のドアを開けた。
 最後に店の看板を確認すると、『○』の上には可愛いカタカナでちゃんと『マル』とフリガナがふってあった。


 

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